黒島は、人間よりも牛が多い、自転車で一周出来る小さな島だ。冬でも暖かい日は20℃に届く温暖さで、とてもゆったりと時間が流れている。そんな島に、一人静かに生きている男がいた。
 人影の無い暗い海岸を、男はゆっくりと歩いている。強い海風が色素の薄い髪を煽っていた。乱れた髪を鬱陶しげに払うと、男は足を止める。蘇って来る声に、耳を傾けるのだ。
 海無し県民だと、海を見るだけでテンションが上がる、そう言って笑った顔が思い出せない。そして『彼』は、今度海に連れて行け、南の島がいいな、と続けたのだ。その時の細かい風景さえも鮮明なのに、何故顔だけが。

「―――さん」

 男は呟き、そしてのろのろと自分の口を押えた。今『彼』の名を呼んだ……筈だ。だが、
「……さん」
 男の手は震えていた。名前が……消えているのだ。
 その場で砂浜に、崩れ落ちるように腰を下ろした。そして『彼』を考える。
 黒い髪、漆黒の闇の眸。ぶっきらぼうな所は、照れ隠し故。正義感が強く、優しい、そして弱い心を持っていた。その弱さが愛しく……

「―――さん」

 『彼』を想うだけで、言い様のない何かが込み上げてくる。それは不思議と、愛おしさしか存在していない。こんなにも、誰かを想えるのだと、思い出せない『彼』が教えてくれているようだ。
 男は涙を流していた。熱い涙が、溢れ頬を伝って落ちていく。

「……さん」

 『彼』を知っている、それは刻み込まれた魂の奥底に。決して消滅する事のない『彼』が、静かに眠っているのだ.
 不思議な位『彼』の笑顔しか浮かんでこない。例えそれがぼやけてしまっていても、男はそれを求め涙を流した。
 それから、どのくらいの時間が経ったのか。


「……」 
 顔を上げると、海の向こうに光が浮かび上がってきた。キラキラと、光の粒を巻き散らしていく……初日の出だ。新しい時間がまた重なっていく。それは『彼』と過ごした時の上に、再び刻み込まれていくものだ。
「―――さん」 
 男は信じている、再び必ず、この朝日を『彼』と共に見る事を。『彼』の手を取り、時の波を共に流れていく未来を。だから今は、



「また、必ず  ――――――――――  高耶さん」



 涙に濡れ微笑んでいる、そこには未来を信じる男の姿が確かにあった。『彼』を……高耶を再び腕に抱くと、上る日の出に祈りを捧げるのだ。      



  文・前田みちろう



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