アリスの見る夢






 カーテンの開け放たれた窓から、十六夜の月明りが差し込んでくる。物音一つ無い静寂の中で、美弥は隣で眠る黒髪を、飽く事無く撫で続けた。
 サラサラと指間を流れる感触が、酷く心地良い。
 今、この時、心臓の機能が止まってしまえば、どんなに幸せだろう。この思いを抱いたまま、死んで逝けるのだから。
「……ん……ぅん……」
 微かな声が口から漏れて、美弥は手を止める。
「起こしちゃった?」
「……ん?」
 まだ寝惚けているらしい様子に、自然と笑みが零れた。
 目を何度か擦る様は幼く、とても年上には見えない。その内今の状況を把握したのか、ボンヤリした表情が、次第に思い詰めたものに変化していく。
「……美弥……」
 硬く引き攣るそれを見た美弥は、哀しい笑みを作った。
「後悔してるの?」



 ―――お兄ちゃん―――



 行方不明だった兄が、突然姿を見せた。この幻を逃さない様、美弥は高耶に縋り付いていた。高耶はその手を、どうしても、振り解けなかったのだった。
 そのまま腕を掴んで自分の部屋に引っ張り込み、ベッドに押し倒した。
 美弥は泣きながら、高耶の服を、乱暴に剥いでいく。高耶も、抵抗をしなかった……出来なかった。
 涙に息を詰まらせながら、唇と指で、記憶にあるよりも随分と痩せてしまった躯をなぞっていく。高耶は空っぽになった眸で宙を眺めながら、美弥のやりたい様にさせた。
 御互いに、言葉を交わす事は、ない。ただ、荒い息遣いと、時折漏れる、涙に詰まり引き攣った、声にならないものだけが、月の所為で酷く明るい室内に途切れなく響いていた。
 高耶の上に乗り、泣きながら腰を振る美弥を見上げながら、高耶もまた涙を止められなかった。
 もしかして、もう二度と会えないかもしれない、否、これが最後の『逢瀬』となるのだと、そんな2人の思いが、絶望と焦燥感を募らせる。
 美弥は、高耶の全てを喰らい尽くすかの様に、その躯を貪り尽くした。高耶も、己を供物の様に差し出すのだ。
 そんな嵐の様な時間が通り過ぎ、部屋には、再び静寂が訪れる―――








「お兄ちゃん……また行くの?」
 再び髪を撫で始めた美弥に、高耶は黙ったまま、正面から目を覗き込む。そして、困ったように笑顔を浮かべた。その泣きそうな笑みを、美弥は愛していた。
「行くんでしょ?」
「……行くよ」
 小さな、だがはっきりとした言葉に、美弥の笑みが深くなる。その、心を凍らせる表情に、高耶は息を飲む。
「み」
「でもね、それじゃあ困るの、あたしは……それじゃあ困るの」
「美、弥」
 震える兄の声に、妹の笑みは深くなった。耀くような、ずっと守って来た、守りたかった笑みだ。
「ねぇ……ずっと一緒にいられる方法、美弥知ってるよ」
「美弥?」
 その目に宿る色を見て、高耶は眉根を寄せながら心配そうに名前を呼ぶ。
「おまえ」
「ねえ、お兄ちゃん、美弥が……喰べていい?」
「……」
 きょとん、としていたその顔に、見る見る驚愕の色が敷かれていった。だがそれも、短い間の事で。直ぐに小さく、困ったように肩を竦めるのだ。
 上半身だけ起き上がり、覆い被さる様に見下ろしてくる美弥に、高耶は一度静かに目を閉じると、ゆっくりその美しい眸を開く。
 そこには、自分とよく似た眸が、邪気の全く無い無邪気な光を湛えて、真っ直ぐ見詰めていた。
「お兄ちゃん」
 高耶の愛する、何よりも大切であった綺麗な眸だ、
「喰べて、いい?」




綺麗な―――

「……いいよ……」










 部屋中に充満する生臭いにおいが、美弥に満足感を与えてくれる。夥しい鮮血に躯中を真っ赫にそ染め、それでも美弥は幸せだった。
 高耶の柔らかい首筋に、美弥は文字通り喰らい付いたのだ。兄はその痛みに一瞬顔を顰めたが、何処か恍惚とした表情を浮かべていた。
 それは美弥にも言える事であった。


 一つに、なるの


 音も無く絶命する高耶を見詰めながら、美弥は泣いていた。高耶を喰いながら、泣いていた。


 一つに、なるの


 愛が、昇華していく。
 無慈悲な月だけが、傍観者の目でそれを見ていた。







 嗚呼、今夜は、どんな夢を見るのだろう―――










                                                    
終劇

                                                
2001.3.11