波動 後編  P.212
       
ヤクザ直江  大学生高耶
否応無しに、義理兄である譲に引き摺り込まれる高耶。そんな高耶の背後を守る直江。高耶を守る、ただそれだけの為の存在する男は本能のままに動く。 高耶に接触する東海の組織織田と『高耶』を取引する譲。そこに高耶の意志など介在ない。そんな背景の中、直江は動き出す。 平三はいまだ意識無く、そんな中で凄まじい結末が二人を待つのだ。
極道・血族・確執・


 そうだ、高耶は妙に明るい。
 知り合った切っ掛けも経緯も、高耶にしてみれば最悪なものだ。それは現状も変わらない。当然ながら、高耶は決して、直江と慣れ合おうとはしなかった。
 ピリピリと、だが互いを意識し合う、微かな緊迫感が消えない関係。まるで綱渡りをしているかの様な……
 だが先日、直江はそこから一歩踏み出してしまった。それが、譲の逆鱗に触れた事は記憶に新しい。
 それ以来、高耶は直江と会話≠していない。必要最低限の、遣り取りだけである。元々会話は殆ど無かった、それが完全に消えてしまったのだ。
 消えてしまった筈なのだが……
「……」
「直江?」
「いや……」
 今日の高耶は明るい≠フだ。これはまるで以前の様な、否、こんなに明るくよく喋る高耶は初めてであった。
「……」
 違和感に、直江は心の中で唸る。
「美味いって」
 笑顔さえ浮かべている高耶に、舌打ちしたくなる。大きくなる違和感が、直江を苛立たせた。
「……いただきます」
 特に腹も減っていなかったが、断る理由も無く直江は小さく頷く。
「召し上がれ」
 からかっているのか、高耶はにやにや笑っている。それを見ない様に直江は、ナポリタンを口に運んだ。
「……」
 酷く、懐かしい味がした。
 育ったホームで、たまにナポリタンが出る事があった。子供達に人気だが、弱い者は大人に見付からないよう、こっそり取られてしまう事は日常であった。
 直江も幼い頃、年上の子供に何度も食事を取られ、何時も空腹を抱えていた。だが己が力を示せるようになると、そんな事は無くなっていった。
 暴力で相手を黙らせる事は、正義であり、自然であったのだ。
「美味いだろ」
「はい」
 確かに美味い。
「良かった」
 小さな高耶の言葉に、直江はチラリと視線を上げた。だがそれを、
「……」
直ぐに後悔する事となる。
 先程とは違う、柔和な笑みであった。
慈愛、などと言う言葉を直江は知らない。だがもしも慈愛≠フ本当の意味を知っていれば、直江はそれを当て嵌めていただろう。
直江にとって慈愛≠ニ言う言葉は、絵に描いた餅の如く白々しいものであった。人間は皆、上下に別れ、それは持つ力で決められる。そこに情けは混在しない。だから、
「……」
 見なければ良かった……強く思う。
恐らく高耶も、無意識で浮かべた笑みであろう。それを直江に、高耶は与えたのだ。それを思うと苛立ちを通り越し、直江は虚無に襲われた。
 三分程で、直江は完食する。無言で立ち上がると、高耶もお茶を一口飲み腰を上げた。
「行こうぜ」
「高耶さん」
「いいよ、今日はもうサボる」
 悪びれた笑みを浮かべると、高耶は学食から出て行こうとする。
「しかし」
 無理をしてでも、高耶が大学に通っているのを知っている。一つ一つの講義を大事にしているのも。
 授業料が勿体ない、と言うが、今の高耶にとってその時間は、拠り所になっている筈だ。普通の世界≠ニ繋いでくれる、そんな意味があるのを直江は知っていた。
「待て」
 咄嗟に腕を掴むと、高耶は驚いて振り返る。
「な」
「高耶」
 直江が何を言いたいのか悟った高耶の顔から、笑みが消えていく。
「煩ぇ」
 吐き捨て高耶は、男を睨み付けた。激しい拒絶を感じ、直江は手を放す。
「高耶さん」
「いいんだよ、どんだけ勉強したって無駄だ……おまえだって分かってんだろうが」
「……」
 黙る直江に顔を顰めると、高耶は背を向けた。そのまま行こうとする高耶をだが、直江は赦さなかった。
 再び手を伸ばすと、高耶の腕を掴んだのだ、今度は痛い程強い力で。
「ッ?!」
 驚いて振り返った高耶は、息を飲んだ。
「待て」
 ギラギラとした鋭い眸は、射る勢いで高耶を見据えている。凄まじいまでの圧力に、高耶は喘ぐと同時にゾクリ、としたものを感じ取った。
「……離せ」
 それが快感だと自覚せぬまま、高耶は直江を睨み返す。
「……」
 更に力が込められ、痛みに高耶は唇を噛んだ。だが直江の腕を、振り払おうとはしなかった。
「何故どうでもいい顔をする……ここは、あんたにとって大事な場所なんだろう」
 声は酷く静かなものだ。だが低く、地を這う。
「……煩い」
「無駄なのか……ここはあんたにとって」
「黙れッ」
 高耶は目を吊り上げ、憎悪の目を直江に向けた。
「黙れってんだッ! おまえに何がが分かるってんだッ! 無駄な事に……無駄だって分かって続ける虚しさ、おまえに分かんのかよッ!」
 怒鳴り声は学食に響き、少ないが居合わせた者が驚き振り返る。だがそんなものは、二人の目にも意識にも入っていない。
「おまえにッ!」
 一際大きな声で叫んだ高耶を、直江は醒めた目で見詰めていた。そして掴む腕を、思い切り引き寄せる。
「くッ」
 咄嗟に高耶は、もう片方の手を男の胸に着いた。
「な」
 顔を上げ、鼻が触れ合う距離で見詰め合う。
「甘えるな」
「ッ」
 大事なものを自ら手放そうとする高耶に、直江の苛立ちは膨れ上がった。
 どうでもいい筈だ、高耶がどうしようが何を思おうが。だが、それでも―――
「甘えるんじゃねえ」
「……」
 昏い……底の見えない昏さの眸は、高耶だけを映している。それを目の当たりにし、高耶は言い様の無い感覚に背中を震わせた。
 そして、躯中から力が抜けて行くのを感じる。虚しく……酷く虚しかった。だから高耶は零してしまうのだ、その心を。
「…………なら」
「……」

「なら……誰に甘えればいいんだ」

「ッ」
 男は息を飲む。
「なあ」
「……」
「教えてくれよ」
 激昂の後の、燃えカスのような弱々しさに直江は言葉を失った。
 それこそ甘え≠ナある。なのに、直江は拒絶し蔑む事が出来ない。
「高耶さん……」
 スルリと腕は落ち、高耶は解放された寒々しさに身を震わせた。
「……何だよクソ……」
「……」
 二人の言葉はここで、完全に途切れた。
 俯いた高耶は、小さく唇を歪め自嘲を零す。だがをそれは、直江の目には届かない。
「……」
 直江に背を向け歩きながら、高耶は絶望していた。
 千秋の言っていた織田信長が、わざわざ高耶を見にきた。
ここ(・・)まで(・・)きてしまったのだと、とうとう、ここ(・・)まで(・・)きて(・・)しまった(・・・・)のだと……諦めるには十分な出来事である。
普通の生活≠ェ欲しかった。それだけなのに、それが遠い。そして今日の出来事で、完全に手から擦り抜けてしまった。それが高耶には、分かってしまったのだ。
 だから、甘えた。他の誰でもない……得体の知れない男に。
「クソ……」
 俯き構内を歩く高耶は知らない、己が泣きそうな顔になっている事を。距離を置いて付いて来る男が、どんな眸で細い背中を見詰めているかを―――

「ク、ソ……」

 ―――高耶は何も、知らなかった。





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 なんだろう……
「……」
 そうだ、これは外界≠フ匂いだ。決して室内には無い……でも、何故そんな匂いが……?
「……」
 ぼんやりした意識でそこまで考えた高耶は、とうとう重い瞼を開いた。
「……」
 布団の上で躯を起こし、高耶はピクッ、と肩を揺らす。何か、物音を聞いた気がしたのだ。そして顔からは、ぼんやりとした眠気が消えていた。
「……」
 音がした、確かに聞こえた。
 音と言うよりも気配≠ナある。気配と言う名の音が聞こえてきたのだ。
 高耶の目が、ス、と細くなる。
 警戒しながら立ち上がると、そっと音を立てないよう襖へ向かった。
「……」
 千秋か……それとも譲が戻ってきたのか……
 そう考える一方で、もっと違う、不吉な予感も高耶の頭に過ぎり始める。
「……」
 これが、気の所為だといい。そう願いながら高耶は、そっと襖に手を掛け、


 バンッ

「!!!」

 驚き過ぎると、声も出ないものらしい。
 鼻の先で勢いよく、叩き付けるように開かれた襖に、高耶は息を飲んだ。
 そこには、見るからに暴力団関係者だと分かる男が数にして……八人。だがそれよりも何よりも、
「こんばんは」
 にやり、と嗤う男を知っている。
「……」
 多い……高耶は心の中で唸った。
 こちらは三人で、しかも高耶など戦力にならない。堅気であればそここそだとしても、所詮素人だプロ≠ノ敵う筈がない。
「こんばんは……仰木高耶」
「……」
 分かっている、本当は人数など関係ない。問題なのは、
「迎えに来た」
「……おまえ」
 この男、そのものなのだから。
「何で」
「ふふん……しかし越虎も舐めた真似してくれるなあ。こんな茶番で、この俺の目を誤魔化せると思ったのか?」
「……知るかよ」
 高耶は迷った。
このまま男―――織田信長に付いて行った方がいいのではないだろうか。
 もし高耶が騒げは、直江も八海も無事では済まされない。だが高耶が大人しく従えば、無駄な怪我人が出ない可能性がある。
「織田は、越後と戦争したいのか……?」
 高耶の言葉に、信長は嗤った。
「さあなぁ」
「仰木さんッ!」
「クソ……」
 廊下の向こうから聞こえてきた八海の声に、高耶は口の中で舌打ちする。
「お前ら何処のもんだッ!」
 高い男達の壁の向こう、八海の姿は見えない。だから高耶は大きな声で訴えた。
「八海ッ、大人しくしてろッ!」
「仰木さんッ!」
 そのまま高耶は、目の前の壁に手を伸ばした。腕を掴み、隙間から向こう側に出ようとしたのだ。だがそれは、信長の阻まれてしまう。
「くッ」
 掴まれる腕に痛みが走った。細身に見える男の力に、高耶は顔を顰める。
「おっと、何処に行く、お前はここにいるんだよ」
「離せ」
「どうして」
「離せ……」
 不思議そうな表情に、不快と怒りが沸き上がってくる。そんな高耶にだが、男は嬉しそうに顔を歪めた。
「その目だ……俺はなあ仰木高耶、お前のその目を見た時、これは俺のものだと分かったんだよ」
「……オレ、が……?」
 言われた意味を把握した瞬間、高耶は信じられないものを見る目で男を見た。
「何だ、それ……」
 嗤っているが、男の目は本気である。高耶には、それが分かり一歩、後ずさった。
「その目が……夜叉を狂わせたのだろう? 俺には分かるんだよ」
「……」
 クツクツ嗤う男を、高耶は茫然と見上げる。
「な」
言っている意味が分からない。
「な、ん……」
 この男は狂っている―――
男の狂気を目の当たりにし、高耶はゾッと身を震わせた。だが問題は、狂ってはいるが、同時に力と頭脳を持ち合わせている事実である。
「仰木さんッ!」
 八海の声と同時に、信長を囲む男達が銃を取り出した。それを見て高耶は、八海が銃を出した事を知る。
「八海ッ! 止めろッ!」
 この状態で発砲すれば次の瞬間、間違いなく八海は蜂の巣になる。それを想像し、高耶は声を上げた。
「止めてくれ八海ッ!」
 高耶の声が届いたのか、織田側の発砲は無い。
「……おい、オレが行けば譲がキレる……そうなると厄介だぞ」
 虎の威を借る訳ではない。その方が余程いいのだが、これは事実だ。だがそんな高耶に、信長は肩を竦める。
「おかしな事を言う」
「何?」
「そもそもお前を寄越すと決めたのはお前の兄だ。それをわざわざ出向いて、こうして迎えに来てやった……何の問題がある」
「……」
「ふん、奴はあらゆる展開を読んでいる、そんな男だお前の兄は。だから抗争など起きる筈がない」
「……」 
 信長の言い分は、多分正しい。
 ここで信長が高耶を連れ去ったとしても、譲はどうとでも説明するだろう。
 何処の組織か分からないが、高耶が拉致されたので実家に匿った、そんな風に。だから絶対に、抗争になどならないのだ。
 荒唐無稽な様に見え、細かい計算の上での、信長の行動なのだ。
「……」
 黙った高耶に嗤うと、信長は細い肩を乱暴に引き寄せた、と同時であった、


 ガシャンッ


 甲高い破壊音が、古い民家に響き渡ったのは。
「ッ」
 高耶の寝ていた部屋の窓硝子が、突然大破した。硝子が飛び散り、高耶は咄嗟にその場に伏せる。
 襲撃かッ?!
 そう身構えた高耶は、

 ガッシャーンッ

 更に大きな衝撃に、再び身を伏せた。
 パラパラと、硝子の欠片が降ってくる。そんな高耶は腕を思い切り引かれ、強引に立たされたのだ。
「ッ?!」
 何がッ?! 
そう思ったと同時であった、
「うわッ!」
 背後に放り投げられると、高耶は部屋の隅に転がってしまった。
「痛ってぇ……」
 壁にぶち当たり、高耶は痛みに呻いた。その上散らばった硝子の破片で切ったのか、腕には血が滲んでいる。
「何が……」
 何が何だか分からない……高耶は転がったまま、のろのろと顔を上げた。だが直ぐに、大きく大きく目を見張る事となった。

「な」

 守るように立つ背中を、高耶はよく知っている。






「――――――直江」












インテリヤクザにあらず、武闘派直江、そして大学生高耶。





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