壱
「・・・ぁ・・・・あぁ・・・は・・・んぁ・・・・」
月灯り一つ無い闇の中、二つの荒い息遣いと、木が軋む、ギシギシ、という音だけが、存在している。
「ひぁっ・・・・・あ・・・・・ふぁ、んん・・・・・・・んぁ・・・・・」
その時、遥か高い位置にある窓から、雲に切れた月が発する光が差し込んだ。
そこに浮び上がったのは、礼拝台の上に仰向けになっている全裸の身体と、それに覆い被さる大きな背中。
その時、仰け反った顔が快楽に歪みながらも妖しくしワラッタのを、蒼い月だけが、見詰めていた・・・・・・・・
「こちらが礼拝堂です」
50がらみの、頭の禿げ上がった男が、豪奢で壮麗な、小さなビルヂング一つ分はある建物を指差す。
私はそれをボンヤリ見ながら、胡乱な返事を返した。
辺りは休暇中なので、他の人間の気配は無い。
こんなに広大な敷地内に、人の気配が無いなんで、考えてみれはが妙な話だ。
春先の暖かい風が、緩く漂っている。
それがどうにも心地悪く、私は流れてもいない汗を拭った。
「直江先生は、開崎さんの御紹介でこちらにいらしたそうで」
「・・・・・・えぇ・・・・・・」
聞き慣れた名前が出て来た事に少しはホッとし、私は表情を緩めた。
実際、彼の力添えが無ければ、私は今頃東京にある自分の下宿で、ただ惰眠と時間を貪っていただろう。
一高、帝大時代の友人でもある開崎は、私が以前勤めていた大学を止め、特にする事もなくフラフラしているのを見兼ねて、この学校の理事に紹介してくれたのだった。
瀬戸内海に浮ぶ小島に、その面積いっぱいに使った広大な全寮制の学校。
学費のバカ高いこの学校の生徒達は皆、成功者の親を持っている。
或いは、名門や家柄が全て、な者達。
その世界は、余りにも自分と懸け離れている。
開崎には悪いが、多分私はここは長くは無いだろう、この校内を歩いてみて、改めてそう思った。
酷く、居心地が悪い。
嫌、居心地悪い、というのとは又違う。
何か・・・・・・ココハヨクナイ・・・・・・
漠然と感じる、悪寒と不安、それが私の精神を蟲ばんでいく。
早く逃げ出さなければ、いけない、完全に喰われてしまう前、に・・・・・・・・
「・・・・・・・イ・・・・・直江、先生・・・・・?」
名前を呼ばれて、引き戻される。
「あ、はい、何でしょう?」
案内を買って出てくれた男に、無理に作った笑みを向ける。
男は山嵜といい、生物の教師だと言っていた。
「直江先生の御実家は、教会なんですよね?」
「えぇ、そうです・・・・・・」
そうなのだ、父親は牧師をやっており、その御蔭で私は歴史の教諭兼、神学などを含んだ礼拝などを頼まれていた。
確かに、教会業務については分かっているのだが、聖職者の息子に有るまじき、無心論者の上、信仰心の欠片も無い、という親不幸者なのだ。
そんな私が、少年達に神の教えを説く、など、笑い話以外、何物でもない。
実際開崎も、笑っていた。
疲労感と、嫌悪感
ここへ来る前は、適当にこなしてしまえばいい、そう考えていた。
何しろ、働かなくては、生きていけないのだから。
それに、私が何時までもフラフラとしていては、婚約者である美奈子に申し訳が立たない。
この私の所為で、結婚の時期が延びているのだ。
そんな気持ちもあり、軽い気持ちで引き受けた事を、既に後悔している自分が、いる。
そんな鬱葱とした気持ちを抱えながら歩いていると、ふと、空気が動いた気配がした。
だから、振り向いたのは、無意識、だった。
背後に建つ、豪奢でありながら、何処か禍禍しさを醸し出す、礼拝堂。
「直江、先生?」
立ち止まってしまった私に不審に思った山嵜に、校舎の方から彼を呼ぶ声が届く。
きっと、何かの所用だろう。
「山嵜先生、私は一人で大丈夫ですから、どうぞ行って下さい」
「はぁ・・・・そうですか?申し訳ありませんが・・・・」
自分から案内を買って出たというのに、途中で放り出すのは気が引けるらしい。
まだ戸惑っている山崎に、安心させる様に作り笑いを浮べてやると、彼は申し訳なさそうに頭を下げると、早足で建物の方に消えていった。
「・・・・・・・・・・」
西班牙のパテオの様中庭に独り取り残された形になったのだが、却ってその方が気楽だ。
「?」
又、だ、
その感覚に、ゆっくり背後を振り返った。
礼拝堂、これからの、私の職場、でもある。
足元で、ジャリ、っと石の擦れ合う音が、する。
ギィ―ッ
軋んだ音を立てて、重厚な扉が開く。
そんな必要も無い筈なのに、何故かなるべく音を立てない様、慎重に扉を開いた。
昼間だというのに、薄暗い内部は、まだそう古くない筈なのに、何処か澱んだ匂いがした。
かなり広い。
中央の通路を歩いて、行き止まりにある礼拝台の前で、足を止めた。
高い位置にあるステンドグラスから、弱い光が差し込んでいる。
ゾクッ
その時、背筋に走った感覚は、何なのだろう。
カタ
「!」
何時も以上に過敏になっていた私は、その小さな音にも大げさに反応してしまった。
壁際にある礼拝席、音はそこからした。
「誰か、いるのかい?」
大きく肩を揺らしてしまった自分は恥かしく、私は少し大きな声を出す。
それは、教会内に、低く響いた。
”あ・・・・・・・”
その時感じたのは、一体何なのだろうか、
ゆっくり、教会内の、”磁場”が、動いた、そんな錯覚に捕われる。
それがが、身体を、ゆっくり起こす。
「済みません、ここで祈りを捧げている内に、眠ってしまった様です」
それは,少年の容をしていた。
病的な程の、白い肌
血を吸い込んだよ様な深紅の唇が、動いている。
その、口元から目が離せない。
「直江、先生?」
少年に名前を呼ばれて、私はハッと、我に返った。
どれ位呆けていたのか分からないが、初めて対面した生徒の前で失態を犯した気がして、顔に血が登ってくるのが分かる。
それを取り繕うと、何か話そうと口を開いた時、今がまだ休暇中な事実に気付いた。
そんな疑問が顔に出ていたのだろう、少年は紅い口端を引き上げる。
「事情かがあって、俺は早目に戻って来たんです」
その”事情”というのは何だろう。
しかしまさか、それを聞く訳にはいかない。
幾らなんでも、不躾だ。
そんな私の心を読んだかの様に、少年は薄笑い乍ら近付いて来る。
「大した事ではありません」
「あ・・・・・・そぅ・・・・・・」
壁際の礼拝席から、ゆっくり中央のロォドに歩いてくる。
彼が近付いてくるのを、私は待ち受ける。
そして、少年は直江の正面に立つと、左手を、差し出した。
多分普通は右手なのだろうが、その時の私は、そんな事に頭が回る訳が無かった。
そのまま誘われる様に自分の左手を差し出すと、少年の手がスルッと私の掌に滑り込んでくる。
ドクン
全身の毛が、総毛立つ、感触
言い様の無い、不安定感
その後、彼は一言二言言い、礼拝堂を出て行く。
聞いている筈なのに、彼が何を言っているのか、分からなかった。
少年の姿が完全に見えなくなると、私の頭が漸く動き始める。
彼との、短い会話。
「・・・・・・・・あ・・・・・・・・・・」
あの少年は、確かに私を直江先生、と呼んだ。
私は、彼に名乗っただろうか?
そんな記憶は、無い。
私が名乗らなければ、彼が名前を知る筈が、無い。
私はこの春から、赴任され、まだ誰も私に面識のある者はいないのだ。
嗚呼、
しかし、彼は確かに、呼んだのだ。
「・・・・・・・・」
否、きっと名乗ったのだろう。
でなければ、説明が付かない。
あの時の私は、何処か変しかった。だから気付かない内に、名前を・・・・・・・・・
足が張り付いた様に、動かない。
広い礼拝堂全体が、私を威圧している様な気がして、その場に立ち尽くすしか、術が無かったのだった・・・・・・・・・
続
2001.3.3
ホラ―が書きたくなったんで・・・・・・