11


 幼い俺がいた。
 父親に連れてこられた、小田原にある純日本屋敷。知らない大人達と話ている父親の背中を確かめて、そっとその場を抜け出した。殆ど家にいない父親に馴染んだ感情を持てない小さな俺は、別に側を離れても心細さを感じる事は無いのだ。
 自宅も広い方だが、こことは規模が違う。子供の感覚では、気を抜けば直ぐに迷ってしまう程だった。
 不意に鼻をくすぐる、甘い、香り
 誘われて、屋敷の裏手に迷い込む。
 足が、止まった。
 目の前に広がる薄紫の海に飲み込まれる錯覚を起こした幼い俺は、ただただ、呆然と魅入るしか術が無いのだ。
 藤の、華。
 でも、子供の俺は、華の名前など知らない。だから、



 ――そうだ――



そこで、



  ――あれ、は――



「……」
「直江?……オイッ?!大丈夫かよっ!」
 遠くの方で、千秋の声が聞こええる。
「お前っ、真っ青だぞっ!」
 ボンヤリした意識で顔を動かすと、何時の間にか真横に千秋がいた。カフェテリアの床に膝を付いている俺の肩を房ぶって、険しい表情で何か喋っている。


 煩い
 煩い
 煩い


「直江…っ!」


 煩い
 喋るな
 頭が痛い


 警鐘が、狂鳴る
 

 だから多分、顔色は最低だったのだろう、珍しい千秋の真剣な表情は、俺を本気で心配しているものだ。
「……」
 実際、頭が暴発しそうだった。意識を保っているのが奇跡の様な状態、否、既に崩壊していたのかもしれない。
「直江寮長さん……アンタ、何を知ってるんだ?」
 床に蹲りカタカタ躯を震わせて酷く混乱した状態な筈なのに、その成田の声が不思議な程ハッキリ耳に届いた。横にいる、千秋の息を飲む空気音さえ、明確だった。
「……」
「……直江……お前……」
 八月の午前九時、宇宙には一年中で一番鮮やかな恒星の姿が世界を征している。
 眩しい、美しい世界。
 緑に守られた、この宇宙船。その中で今起こっている出来事は、まるで白昼夢の様で。残酷に記憶の再生し始めるのだ……



 一人の狂女お ん な
 狂った狂女お ん な
 


 狂気に犯された白い手は、同じく白く細い躯の一部を破壊していた。
 絞められた首は、段々と機能の停止を促されている。
 
 そう、少年
 自分より少し小さい位の、綺麗な子供
 もがく力も残っていない

 締め上げる腕が段々強まっていくのが、離れた場所からでも見て捕れた。動けない、だた呆然と立ち竦んで立っているのは、幼い俺だ。
 女の眸は、間違い無く狂人のもので、それでも、だから、この世の者とは思え無い程美しかった。
 女の下で、死んでいく子供。
 これは一体、現実なのか……?


 女、少年、幼い自分
 それだけの、世界、否、


 違、う………?
 

「直江……?」
「……」
 ノロノロと立ち上がった俺に、訝し気な千秋の声が掛けられたが、聞こえただけで意味を把握した訳では無かった。
 明らかに、俺の様子はお かしかった。それは千秋や成田の様子で分かる。
「お前、もしかして、始めっから……」
 フラフラ無意識に椅子に座った俺に、千秋は決意を含んだ話を始める。成田はただ、無表情で立ったままで見据えていた。
「アイツは、北条の仰木高耶″じゃねぇよ、本物の仰木高耶は……三歳の時に死んでる」
「……ふぅん……じゃああの高耶″は誰なんだよ」
 二人の会話は、宙にただ流れていた。
「……」
 成田の毒の混じった言葉に、千秋は言い澱んで口を噤む。千秋のこんな様子は、本当に珍しいもので、もしこの時正気でいたなら真っ先にその躯の具合を心配しただろう。
「……何でも……ねぇんだよ……」
 頭の上では、意味の無い会話が空気の中で滑っていた。
「このままの状態じゃ、北条に良い様に動かされるだけだ。こっちだって何百人の社員とその家族の生活が掛かってんだ、そうそう言いなりって訳にはいかねぇんだよ。だから、親父にアイツ見てろ、って言われた時別口も調べよう、って思ったんだよ、成田も似た様なもんだ」
 俺に聞かせているらしい内容に、空洞しか見えない。
「俺はまぁ……高耶″が可愛いかったし、遊べるって思ったからってのもあるな……でも何でも無い″ってどういう意味なんだよ、千秋」
 チラッ、と俺の方を見てから、もう黙っている必要が無いと、それより始めから話してしまおうと決めていたらしく、重い口を開く。
「アイツは……戸籍も無いし、勿論出生届も出されていない……始めから、存在しないもの・ ・ ・ ・ ・ ・ ・、として産まれ生きてきたんだよ」
「……」
 予想していたらしい成田は、ほんの僅かも驚いていない。
 でも、違う、のだ。だって俺は……

「高耶……」

 静かだが、戸惑いを含んだ成田の声にノロノロと顔を上げる。
 カフェテリアの入り口に、日の光が差し込む輝いている空間に、彼は立っていた。
 蒼白な、綺麗な綺麗な彼。
 嗚呼、
 また・ ・、なのか。
「……寮長……」
 小さい声は震えていて、抱き締めて暖めたい衝動に駆られた。
 彼の涙程美しいものは無いけど、今は、泣かないで欲しい。だが哀れな子供は、声を立てずに静かに泣いた。千秋も、成田でさえも、今の状況に声を失くして立ち尽くす。

 女、少年、
 それを見ていた俺。
 その俺を、死んでいる少年・ ・ ・ ・ ・ ・ ・が、涙を流しながらジッと見詰めていた、間に女と動かなくなった少年を挟んで、薄紫の、世界の下で―――

「……同じ……顔……」
 呆然と呟いた。
 何故、今まで忘れていたのだろう。
 俺は、見た。禁忌の世界、を。美しい、暴力に彩られた世界、を。
「寮長……」
 そんな俺の様子に、彼の表情は全て悟ったそれだった。
 諦めと、絶望。
 彼は、知っていたのだ、あの時の・ ・ ・ ・子供が、この俺だと言う事を。

 忘却は、神の領域

 誰かが言った言葉。
 一度の見た、聴いた事柄は、永遠に消える事は無い。ただ、脳の隅に仕舞われて、そして何時か命が消えるまで再び瓶の蓋が開かれる事無く静かに眠っている。
 彼にどうしようも無い衝動を覚える理由―――幼い、子供の泣き顔、北条、と言うキーワード。




 そして、蓋は再び開かれた――――




「……オレは……ダミー、だったんだ……」
 静まり返った、夏のカフェテリア、彼の透き通った声が空気を流れる。入り口に立ったまま、彼は動かない。
「今でもたまに見る……暗い暗い、真っ暗な……その中に響いてる赤ん坊の泣き声……あれは多分……」
 生後間も無い自分の記憶、そう、淡々と続けた。
 コインロッカーの中に捨てられていた、子供。
「良く知らないけど、保護された先から非合法のブローカに渡ったらしい、それから……」
 北条の腹違いの弟、腹違い、と言ってもクラブの女に産ませた子供。それでもコマ″として使える日が来ると考え、小田原に引き取られた。
 彼の運命が狂ったのは、ブローカーの伝が北条を知る者と繋がっていたという事実だった。
 僅か生後一年程で、一目で分かる綺麗な子供。その子供と、同じ美しさを持つ、捨てられたもう一人。話は直ぐに北条に伝わる事となる。
「部屋から出てはいけない、ってずっと言われてた」
 濁った眸の俺から目を逸らして、彼は自分の足元に視線を落とす。
「オレの存在を知ってたのは、北条とその祖父で、小田原の大老、って呼ばれていた老人と、世話をする家政婦一人、それだけだった……」
 万が一本体″に何かあたっ時、変わりを勤める、それだけの生き物。だから戸籍も名前も、存在自体を現すものは、一切必要無かった、否、あってはいけないかったのだ。
 日の当たらない、屋敷の奥深く、小さな小さな子供は息を潜めて生きてきた。
 そこまで彼は言うと、凍り付いている千秋や成田の存在など目に入っていない様に、静かに顔を上げて見詰めててきた。深い黒の球体には、微かに深碧色が混じっていて、そんなにも美しいものの視界に自分の姿が入っていると思うと、躯が甘い痛みに震える。
「あの日、外に出たんです」
「あの、日……」 
 彼の言葉に、あの日の情景が鮮やかに蘇る。
 何故、今まで忘れていられたのか。
「思い出さない方が、良かったんんですね……」
 薄く笑った彼の顔が、哀しみに曇る。
「鍵が、掛かっていなかったんです、多分家政婦が忘れたんだと思います、でもそんな事は初めてで、まだ幼いオレは物心付いて初めて見る外の世界″にどうしても惹かれずにいられなかった……」
 頬を、透明の液体が伝う。淡々と落ち着いていた彼の声に、徐々に感情が入り込んできたのを感じた。
「匂いが、したんです……甘い、匂い、が……」
 嗚呼、
 眩暈に、襲われる。
 薄紫の、甘い香り。
 俺達は同じ甘さに惹かれて、そして、見てしまったのだ。
「……女の人が……俺を……」
 込み上げてくる思いに、彼が言葉を詰まらせた。ふと見ると、白いテーブルが濡れている。
「……ゴメン、なさい……」
 俺の涙に、彼は泣く。
 もし、学園こ こで出会わなければ、繋がりをもたなければ、俺は封印した悪夢を思い出す事は無かった……そう彼は泣くのだ。
「あの時……寮長は……オレを救ってくれた……」
 そう、錯乱した狂女お ん なは、子供一人を殺めた後、大きな声で嗤い出だしたのだ。それまで固まって硬直していたオレは、黙ったまま自我を放棄しようとしていた子供に駆け寄って、
「抱き締めて……くれた……」
 彼の言葉が、心に落ちる。
「それからオレは……」
「仰木高耶″に、なったって訳か……」
 千秋の声は、遣り切れなさを多分に含んでいて。
「……クソ……ッ」
 小さく、はき捨てた。多分、犠牲・ ・というものに躊躇しない北条゛という名前に。
「仰木高耶、として道具になる事だけが、存在を赦される唯一の…………でも……怖かったッ!」
「仰木……ッ!!」
 突然頭を抱えて悲痛に叫んだ彼に、無意識に駆け寄っていた。
「ずっとッ、ずっと怖かったッ!」
「仰木君……ッ!」
 ずっと空洞の中で生きてきた、彼の慟哭。
 千秋と成田の存在は、既に頭の中から消えていた。腕の中の彼の温度の無さに、不安を掻き立てられ、力を込めて抱き締めた。
「オレには……何も、無い……生まれた跡、生きてきた証拠も……もし、もし仰木高耶″じゃ無くなった時、全部の、オレの……オ、レ……の……」
「……ッ」
 床に膝を付き、静かに涙を流す彼の眸には、何も映っていない。虚ろな色が、生気を喰っていくのが、見える。堪らなくなって、抱き締める細い背中に爪を立てた。
 戸籍が、無い。自分の歴史が、何年生きても、何も残らない。何より自分″が無い。それがどんなに彼を恐怖に陥れていたのか。
 足元が、崩れ落ちていく感覚。何も無い空間に、浮んでいるのだ、何時、落ちていくのか分からない時間の中で。



 ―――存在しない、存在―――



 抱き締めた腕から、彼の中の絶望と哀しみが流れ込んでくる。
「寮長……寮長を見た時……直ぐに分かりました、あの少年だって……だから……」 
 縋ってしまった、と彼は泣く。
 何時の間にか角度の変わった恒星が、今まで陰になっていた彼の場所に、光を当てていた。
 外は、八月の美しい世界。このカフェテリアは永遠に時間の流れを漂流する箱舟で。
「……直江……」
 千秋の声に顔を上げたのは、多分無意識だった。少し離れた場所に立っている千秋の顔色は、蒼に近い。
「……もしかして……北条に、俺達が事実を知った事が、知れるかも、しれない……」
 彼の肩が、大きく揺れる。
「そうなったら……この・ ・高耶はどう…なるんだ?」
 幾分掠れた成田の言葉に、彼はゆっくり顔を上げた。
 涙に濡れる、白く美しい彼。奇跡の様な綺麗な造りの顔に、千秋と成田が息を飲むのが分かった。
 俺の指が濡れた頬を滑ると、彼はゆっくり瞳を綴じる。それから薄ら瞼を開くと、躯を少しだけ起こした。近付く顔が重なった時、唇に濡れた感触が走る。それが彼の涙に濡れた唇だと気付いた時、耳元を小さな囁きが擽った。
 目の中に、太陽光線に反射した銀色が光ったのが見えたのは、意味があったのだろうか。一瞬後には、それは彼の手の中にあった。


フルーツナイフ


ボンヤリした頭でそう認識出来た次の瞬間、
「ぁ………」

 赫が、舞う

 視界いっぱいに広がった、赫。

 崩れ落ちる、細い躯
 驚愕の表情で駆け寄ってくる、千秋と成田

 それは全てスクリーンの中の映像で、夢のように白く浮び上がる。
 思考は宇宙に溶けて消えて行く。
 幼い頃、あの薄紫の下で始まった甘い悪夢は、今ここで消滅するのだ。

 ボンヤリと虚ろな意識の中で、目の前を見る。
 赫の中で横たわる、彼。
 赫に彩られた彼は、酷く綺麗で――


 小さな小さな、彼の囁き。
 そう、彼は何て言った?何て……そう……小さな声はこう囁いたのだ、






  ―――疲れた―――