12
夏が、終わった。今年も何も変わる事無く、帰省していた生徒達が寮に学園に戻ってくる。明日二学期を迎える今日、寮長としての雑務に追われていた。
「寮長、お早う御座います」
「お早う」
下級生に挨拶され、鸚鵡返しに言葉を返す。物言いた気な視線には、この数日間ですっかり慣れてしまった。
今までも良く人目を受けていたが、今現在のそれは、種類が違う。何もかもが煩わしいくて、無意識にため息が漏れた。
「何、怖い顔してんだよ」
「千秋……」
何も無かった、何も変わらない、そう錯覚しそうな何時もの軽口。そして空には、温度の無い輝く恒星。そう、何も変わらずに流れる時間。
「別に、何か用か、忙しい」
「仰木」
言葉が、途中で途切れた。ゆっくり向き直ると、何故か千秋は複雑な表情をしていた。多分、俺の顔色の所為だろう。
「今日、退学届、受理された、ってよ」
「関係無い」
誰の、とは言わない。
もう、放って置いて欲しかった。そんな思いを込めて、それだけ素っ気無く言うと背中を向けて歩き出す。
それ以上千秋が追って来る事は無かった。
あの日、あの八月の白い世界の中で、彼だけが赫″を纏っていた。
偶然カフェテリアにやってきた居残り組の生徒が、惨状にうろたえ職員室に走る。千秋は何か白いものを、床の上で仰向けに倒れている彼の喉に当てていた。それは見る見る赫く染まり、彼の白い開襟シャツを益々染めていく。
リノリウムの無機質な床が、血溜りを作り出していく様は、幻想的にさえ、見えた。そして、サイレンの音と供に、彼の姿は消えた、八月の宇宙船、から。
慌しいく周りが動いていた。救急車に乗り込んでいった千秋、千秋から携帯で連絡を受け取る成田。それに、蒼くなって慌てふためく教師達。
それから、どれ位経ったのか、カフェテリアには、夜の空気が流れ込んでいたのだ。その間、救急隊や教師に何か訊かれた気がしたが、何も記憶に残っていない。
ヒンヤリと、肌寒かった。
「高耶」
声の方に振り返ったのは聞こえた単語の所為では無く、音のトーンに反応しただけだ。
「死んでない、って」
「……」
助かった″では無く死んでいない″と言うリアリティに、意識が成田に向かう。
「でもさ、結構ナイフが深く入って……声帯、疵付けた、って……」
「……」
両手で確り握った銀色、自分の喉下を真横に引き裂いた。そう、やっと映像が脳裏でリプレイされる。
そして、彼は永遠に声″を失ったのだった―――
ふと寒さを感じて窓の外を見た。先程まで降っていた雪が、何時の間にか雨に変わっている。
厚手のアランセーターを着ていも、山の寒さは更に上を行っているのだ。俺は立ち上がって窓際まで行き、ヒーターの温度調節を上げる。
四月に入学し、そして二学期にはもう姿を消した彼に付いて、学園内では様々な噂が徘徊したらしい、千秋が色々と言っていた。色んな意味で人目を惹いていた彼だから当然なのだろうが。
あれから千秋から老爺、と言う名の小田原に巣食う怪物の娘、北条の母親でもある女が精神を病んでいた事を聞いた。あの、狂女――薄紫の世界の下で、幼い二人の仰木高耶を葬った、それ。
夫が他の女に産ませた生き物に、何をそんなに追い込まれてしまったのか。
千秋の話では仰木高耶″は、途切れなかった。途切れる事無く彼″は存在し続けた。もし女が仰木高耶を殺さなかったら、彼は一体どうなっていたのか……それを確かめる術など、今は無いのだが。だが、そんなもの、どうでもいい。俺があの場にいた事を知っているのは、永遠に彼と自分だけなのだから。
北条から何か言われていたのか、学園側では一切の言葉も無かった。それはまるで、初めから彼の存在など無かったかの様に、日々は流れていったのだ。
彼のいた部屋は、今でも誰も入っていない。
季節は無遠慮に、宇宙船を守る樹々達の色を変えていった。
夏が終わり、暖色系に覆われると、それも無情に消えていく。千秋が父親に何を報告したのかは、聞いていないし、聞く気も無い。あの薄紫の下で俺は始まり″夏と供に終わった″。感情の全てが、あの時生まれて、彼に異存し続ける時間は、八月の恒星の中で消えてしまったのだ。
山奥の冬は厳しく、ヒーターを入れても何処かヒンヤリしている。
雨の音が、何かを呼び覚まし、心臓が音を立てた。雨は、彼の匂いが、するのだ。
夏の彼、しか知らない筈なのに、冬の訪れと供に意識に入り込み、否、完全に意識そのもの″に変化している。
だから、雨は……
トサッ、と裸の枝から雪が落ちた音が耳に入る。
時計は、深夜を指していた。今は雪に守られている宇宙船の内部は、物音一つしない。静寂が、耳に痛かった。
雪の音″が見たくなり、机から顔を上げて、窓際に近付く。硝子は掛けた指の温度を奪ったが、それが心地良い。
ガタガタ、重い音を立てて、二段式の上下に重なる窓をこじ上げた。寮と図書館の間にある中庭の白は、雨が徐々に消し始めている。俺はコートを羽織ると、そっと部屋を出た。
既に消灯時間が過ぎて随分経つ所為か、起きてい生徒が皆無の様に感じる。
鍵を持って、螺旋階段を静かに降りた。
重い飴色の扉を開くと、冬の冷気が肺に滑り込む。
サクサク、まだ残っている雪が足の下で鳴いた。そのまま真っ直ぐ、何の躊躇いも無い足取りで、あの場所へ向かう、もう色を落としてしまった、藤棚へ。
サクサク サクサク
聞こえてくるのは、ただそれだけで、足は数分で、目的の場所に俺を運んでいった。
頭の上には、かつての薄紫の世界。
サクサク サクサク
足が、止まる。
パンッ
乾いた音が、静寂に掻き消された。
雪の上に蹲るそれに、細い雨が降り注ぐ。
ノロノロと顔を上げるそれに、俺は再び同じ頬を打った。
パンッ
地面に倒れ込んだ胸倉を掴んだ、真冬に、白いシャツ一枚の薄着の村倉を。
唇を噛み付く様に貪ると、赫の味が口腔に広がる。
甘い、陶酔。
彼―――彼の、彼の口が動き、何かを伝えようと動いた。だから俺はもう一度、それを塞いでやる。
そして開放した躯の、手を取った。
「仰木、君――」
雨の、音
その後、二人の姿を見た者はいない