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 四月とは言っても、この鬱蒼とした樹々で隔離されている場所は高度もある為、まだまだ肌寒い。一番近い市内からも、バスを乗り継いで2時間弱は掛かってしまう世俗から隔絶された空間。
 世間に多くいる「一般的な高校生」とは、多分規格が違う生徒達に紛れて暮らしているのも、三年目ともなればもうすっかり慣れてしまった。そんな淡々とした生活の中で彼に出会ったのは、それさえも浮世離れしているように思える。
 だから新入生仰木高耶の存在が水面下で噂として広まったのが入学式から三日と掛からなかったのを、極自然に受け止めていた。
 自分が寮長を勤める寮に彼の姿を見た時感じた心悦い絶望が、まだ棘となって心臓に突き刺さっている。どんな偶然なのか、通常二人で使う部屋を彼は独りで使う事になった。
 誰でも、他の誰かと共有するより一人部屋の方が良いに決まっている。それでも三年生ならまだ話は分かるが、入学したての新入生が独りで部屋を使う事に、教師から話を聞いて正直驚いた。他の寮生達の反発が目に見えていたから、それを収めなければならなくなるだろう面倒にもウンザリする
「どういう事ですか?」
 内面の不満を押さえ込んで、出来るだけ穏やかに教師を問い詰める。
 優等生である自分に対して教師達が余り強く出れないのを、無論知っての事だ。
 案の定まだ二十代の教師は、言い難そうに口篭ってしまった。
「あぁ、私も良くは知らないんだけど……そういう事に決まったから、直江、君が良く面倒を見てやってくれ」
「そうですか…仕方無いですね、分かりました」
「そうか、それじゃあ」
 何か反論されると身構えていた教師は、オレがスンナリ受け入れたのを幸いと、笑顔で足早に消えてしまった。
 確かに普段なら、そんな面倒を呼にそうな事は言葉巧みに翻(かわ)してしまう所だが、「仰木高耶」に興味があった、
あの、「造り物」に。
 それは純粋な、不可解な生き物・・・・・・・に対する興味であって、あの「造り物」の下には一体何が潜んでいるのか、ただ、それが知りたかっただけだった。
 校舎と図書館の間にある細い道を三分程歩くと、三階建ての煉瓦造りの建築物が、凹状に三棟建っている。その中央、他の二棟に挟まれた形で建っている建物が、自分が寮長を勤め、これから仰木高耶が暮らすB棟だ。
 慣れた細い小路を抜けると、直ぐに煉瓦色の重厚な建物が目の前に現れる。春の花の香りの纏わりつく躯で、入り口から入っていった。
 今の時間は、殆どの生徒は自室にいる筈なので、真っ直ぐ彼の部屋に向かう。建物自体は年代物で、それこそ文化的価値が付きそうなのだが、内部は数年前に改装され、近代的設備が備わっている。
 革靴の裏が硬い床とぶつかって、人気が無い空間に乾いた音を響かせた。
 教師に聞いた彼の部屋は、三階の一番端に位置する。最も、今更訊かなくても、そんな事はとっくに知っていたのだが。
 部屋の前まで来ると、何故だか一旦息を整えてしまう。別段、乱れてもいないのに。
 コン コン
「はい……?」
 その時初めて、俺は彼の声を聴いた。
「寮長の直江です」
 その答えに間を置かず、扉が内側に開かれる。
「今日は、初めまして」
 警戒心を抱かせない温和な笑みを浮べ、何処か戸惑いの色を浮かべる彼に、右手を差し出した。しかし彼は差し出された手を不思議そうに見詰め、唯動かずにいるのだ。それは僅かな時間だったが、その以外な反応に、彼に対する興味が益々膨らんだのは本当だ。
 おずおずと差し出された手を、少し強引に握り締める。
 ヒンヤリと、しかしサラサラとした感触が、手に心地良い。
「仰木高耶です」
 ぎこちない笑みを返され、俺の笑みは深まる。握り締めていた彼の手が、自然な動きでスルリと抜け出して行ってしまうのを、引き止めたい気持ちを押さえ込んだ。
「あの、何か?」
 咎める色などまるで無い彼の声に、ここを訪れた目的を思い出す。
「仰木君は独り部屋なので、分からない事があれば何でも訊いてください。俺の部屋はこの階の一番端にある三〇一号室です、同じ階だけど、一番遠い位置ですね、それと……」
 何故、彼は新入生でありながら独り部屋なのだろうか…?
 そう訊いてみたかったけど、禁謂かもしれないと迷う意識がそれを言葉にさせない、だから、
「――――それと……この学園は、どうですか?」
 関係の無い事を、訊いてしまう。
「態々ありがとうございます。ここは緑が多くて……好き、です」
 穏やかな彼の声に、何故か心拍が早くなった。
 扉を背にして立っている俺に向き合う形で、窓辺に寄り掛かって少し首を傾げた。
 窓の脇にある木製の机の上にある古そうな本を、指先で遊ばせている。逆行で顔に影が落ちて、それを物哀しく感じてしまった。
 こうして向きってみると、思ったより長身な事が分かる。
 一九〇近い自分と、十p程しか変わらないだろう。
 そんな印象を与えないのは、その身長と比べて彼が華奢な所為だからだ。その細い肩はまだ未熟な少年を感じさせ、余計に小柄に見せてしまっているらしい。
 確かに、彼から『大食』と言う言葉は、想像し難い。
「でも、田舎で何も無いんです、退屈ですよ」
「退屈?」
「えぇ、周りに遊ぶ所も無いし、まして街までかなりの距離がある」
 そう言いながら肩を竦めてみせると、彼の顔に微笑が浮んだ。
「でも……オレは、好きです」
「……それなら良かった」
 そんな彼の顔を見ていられなくなり、不自然にならない様心掛けながら視線を部屋に移す。
 元々二人部屋として作られている所を独りで使っている所為もあるのか、他の部屋より広く感じる部屋を見回した。
 物が、極端に少ない。
 リノリウムの無機質な白い床。それは何処か、近未来のサナトリウムを思わせた。
 カーテンの無い窓からは、四月の光と匂いが紛れ込み、それが彼の背中に溶け込んで、別世界にいるような錯覚を覚えさせる。

「…雨に……なりますね……」

「え?」
 彼の声に現実に引き戻されたオレは、慌てて窓の外を見た。
 そこには晴天の、雲日一つ無い空が広がる。
 冗談かと思い、彼に何か言おうと振り返って――言葉を飲み込んでしまった。

 彼が、


 ――儚い程、綺麗な笑みを浮かべていたから――


「――雨……です、か……?」
 掠れてしまう声を、どう思っただろうか。
 フイ、とオレから窓の外に視線を移し、彼は夢見るように言うのだ。


「えぇ……雨です……」


 落ちる沈黙が、心に染み込む。
その心地言さに、ウットリ目を閉じた。
 その瞬間、確かに世界には二人だけが存在し、時間の揺らぎにユラユラ揺られていたのだった。

 

コン コン 

「……ぁ……」
 静寂を破る扉を叩くノックの音で、我に返った。
 一体どれ位放心していたのか、定かじゃあなかった。視線自体は彼を見詰めていた筈なのに、どんな表情をしていたのか思い出せないのだ。
 コン コン
 返事が無いのに焦れた様に、ノックの音が心なし強くなる。
「ハイ」
 スイ、っとオレの視線を避けて、彼は扉を開いた。
「おい、直江」
 そこにいたのは、千秋だった。扉を開けた部屋の主である彼に一瞥もくれずに、部屋の中央に立ち尽くしている俺に声を掛ける。
「ちょっといいか?」
 普段なら、例え下級生に対してでもそんな失礼な態度を取れば咎めるのだが、この時の俺にはそんな余裕は無かった。
 少し苛付いた様子の千秋から再び視線を戻すと、彼は薄く笑みを浮かべて微かに頷く仕草を見せた。それは退室を促す意味を持っていたのかは分からないが、そのままろくな挨拶もしないで部屋を後にする。
 後から考えてみれば、自分の態度も決して褒められたものではなく、千秋の態度をとやかく言う資格なんかあったものではなかった。
 彼の部屋を出たオレに千秋は意味有りげな視線を向けている事さえ、満足に把握出来ない。
勿論千秋の言う”用事″など、欠片も頭に入って来なかった。
 

 気が付くと、窓の外では細い雨が降っていた……








 そんな出会いから、彼は俺の姿を見ると、軽く会釈する様になった。俺も彼を見付けると、必ず一旦視線を止める。無意識にあの細い躯を目が探しているのを、漠然とだが自覚していた。だから、彼が図書館によく通っている事も、自然と気が付いたのだ。
 その理由を考えてみると、何故か彼に懐かしさを感じてしまっている自分がいた。
 ノスタルジックで、感傷的な思いが湧き上がってくる。
 会った事など無い筈なのに。
 どうして、だろう――?
 彼の纏う透き通った空気が、そんな錯覚を見させているのだろうか?
 答えは、出ない。
 それでも、それだから、彼に目が吸い寄せられてしまうのかもしれない。
 ボンヤリと一階にある書庫で、急ぎじゃ無い資料を探しながら、考えるのはやはり彼の事だった。それでも何だかんだ埃の匂いのする書庫を後にしたのは、に入ってから一時間程建ってからだった。まだ彼がいるなら声を掛けようと、再び二階に上がる、が、
「止めろ」
 決して大きくはじゃないが凛とした声は、確かに彼のものだ。台詞の意味を瞬時に判断して、慌てて二階に駆け上がる。そこで見たのは、見覚えのある生徒に腕を掴まれている彼の姿だった。
 それだけで、状況が直ぐに理解出来た。
「何してる」
 怒りを込めた低い声を出すと、彼とその生徒が、弾かれた様に振り返った。
「……寮…長…」
 余程驚いたのか、生徒の手は、まだ彼の腕を掴んだままだ。そんな状況など何でもないように、彼はやんわりと自分の腕を自由にする。
 ゆっくり近付いていくと、バツが悪そうに生徒が顔を顰めて俯いた。
 先に口を開いたのは、彼だった。
「何でもありません、少しは話をしていただけです」
 口元に笑みさえ浮かべてそう言うと、俯いている生徒に穏やかに続ける。
「先輩、用事があるんじゃないですか?」
「え?……あ、あぁっ!そうだ…じゃあ……」
 冷たいとも言える、抑揚の無い声。
逃げるように読書室を出て行く背中を見送って、オレを見ると困った様に笑った。
「大丈夫ですか?」
 逃げていった生徒の思惑を思い、怒鳴り付けたい衝動を押さえ込む。
 冷静な声を作って、彼の顔を覗き込んだ。
「はい、何でもありません、でも…ありがとうございます」
 そう言って顔を上げる彼の表情に、俺は目を吸い寄せられる。
 艶やかで、それでいて、透き通る哀しみが浮んでいた。










 

 ここは、世俗から隔絶された空間だ。今では珍しくなった全寮制″という制度を敷いている。
 有名大学への進学率と比例して、学費もずば抜けて高額だ。自然、親が経済的に余裕のある者ばかりが集まって来る。そんな、ある意味平均とは違うラインにいる生徒達には、余り禁忌″と言うものがなかった、欲望・・に関しては、特に。そしてそれ・・が身近な所へ向けられるのは自然の流れで。
 男子校、ならば当然、それ・・は同じ性別を持つ者達に向けられる。
 同性愛や異性愛を区別するのは、それは周囲に両方揃った環境にいて初めて言える事で、回りに異性、若しくは同性しかいなければそれ・・がその限られた存在に向かうのは、人間と言う生き物ならば誰でもそうなるものだ。自分達の様な思春期にいる年代にいるのなら、それは尚更であった。
 愛情と性欲をハッキリ区切れる程、成熟も老齢もしていない。実際自分も、そう言った告白らしきものを、何度も受けていた。しかしそんな気にもなれずに、適当にあしらってきたのだが。そんな世界に生きているのだから、入学してからの彼は、その造り物のような容姿で当然、厭でも人目を引く存在になっていた。
 長身を感じさせない、儚い零囲気。
 今目の前で浮かべる笑みさえ空気に消え入りそうで、俺はその存在を確かにしたくなって、無意識に椅子に座ったままの彼の腕を掴んでいた。
「寮長……?」
 不思議そうな彼の声に、はい?と返事を返す。だが、掴んでいる腕は、離さない。細く、体温を感じさせない、その腕を。そんな俺に、彼は戸惑うように瞳を揺らした。
 長い睫を伏せると、白い顔に影が出来る。
 俺は、ゆっくり彼の腕を開放した。それでも、彼はその場から動かないで、宙に浮いていた腕を机の上に戻す。
 今まで掌に感じていた細い物体を、オレはジッと見下ろした。
「…寮、長……」
 彼は俯いていた顔を上げて、オレの顔を真っ直ぐ見返す。
「はい……」
 立ち上がって歩き出す彼の背中を見送り、扉の向こうに見えなくなる。まるで、空気に溶け込んでしまった様だった。
「……」
 暫くなのか、ほんの数分なのか分からない時間を経由し、俺は読書室を後にする。
 薄暗い螺旋階段を降り、重厚な扉を開けて外に出た。霧雨の中に佇む彼は、本当に儚い存在で。
 一歩一歩歩く度に、足の下で石砂利が小さな悲鳴を上げる。


 言葉はもう、必要無かった。

 
 それは自然な仕草で。
 雨に濡れる華奢な肩を、そっと引き寄せる。
 自分の胸に納まる躯に、長い間失くしてしまったものが、その事実さえ忘れてしまっていたものが、やっと返ってきたのを感じた。



 そっと目を閉じる。


 耳に届くのは、彼のトクン トクン と鼓動する心音と、





 雨音、だけだった……