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「直江、聞いたか?」
 寮では隣室で、唯一の、知り合い・・・・クラスメイト・・・・・・では無く友人・・と認められる人間の言葉に本の文字を追っていた目が止まった。


 季節は五月を向かえ、宇宙船を守る城壁は新緑に色を変えて、目に鮮やかに変化を遂げる。
 脳裏に浮んだのは、そんな樹々達に、目を細めていた彼の姿。
 肌寒さが消え、少しだが、暑さえ感じさせる様になった。そんな中で、彼と穏やかで優しい時間を重ねていた。
 あの雨の日、衝動に突き動かされた直江は、何故あんなにも、彼の姿を見てから目で追ってしまっていたのかを、知ったのだ。
 綺麗で……儚い、彼を。
 二人でいる時間は心地良く、ユラユラ漂っているようで、永遠に続いて欲しい、と願ってしまう。
 彼との事は、密約事だった。千秋にさえ、話していない。薄闇で交わされる秘め事は直江を恍惚とさせ、現実感の無い、幽玄の世界の出来事だと思わせる。
「直江?聞いてんのかよ」
 そして友人の声で、現実に引き戻された。
「あ?あぁ、聞いてる。何だ?」
「……聞いてねぇじゃんかよ……」
「で?」
 先を促す、全く悪びれる事の無い直江の態度に、千秋は呆れたように肩を竦めた。
「ったく……だからアレ、例の一年――仰木高耶」
「!」
 前置き無しに飛び出した彼の名前に、心拍が跳ね上がるのを感じる。そんな内心に気付かないのか、千秋は淡々と続けた。
「ホラ、何で一年が一人部屋なんだって色々言ってたじゃんよ、それも特等席」
「……」
 そう、彼の部屋は一人部屋、と言う事だけでなく三階の南側、所謂一番快適な部屋″なのだ。
 一体何を言い出すのかと身構えている事に気付かない千秋は、興味無さ気に直江のベッドの上に腹這いになりながら、雑誌のペエジを捲った。
「そんでよ、噂なんだけど、アイツ『北条』の関係者だって聞いたぜ?」
「北条?」
 聞き慣れない、でも初めて聞くのでも無い名前に、眉根を寄せる。

 だが、何処で聞いたのか……


「ぁ―――」

 ――思い出した――

 北条――日本人なら何度か耳にした事が必ずあるだろう、その名前。
「あの……北条″なのか……?」
それ・・らしいぜ」
 突然襲う、訳の分からない焦燥感。彼が何者であるかなんて、そんな事この思いには関係無い筈、なのに。それでも、聞いてしまったバックグラウンドは、彼にそぐわない気がした。
「な?それが本当なら、一人部屋も特等席″も、納得出来るだろ?」
 別に関心など感じられない声――実際無いのだろうが――が、イヤに頭に響いた。


 ――小田原の大老――

 そう呼ばれている人物を、確かに知っていた。
 古くは皇族とも繋がりを持ち、華族出身の名門。今も経済界での力は大きく、何より行政の影の支配者、と呼ばれている人物。
「……」
 黙り込んでしまったのを、千秋が興味深そうに見ているのにも気付かない。
 そうだ、
 それ以前に、もっと直接的な接触があったのだ、遠い過去、幼い頃に。

 父親に連れていかれた、広大な日本庭園。集まっているのは、同じ服を着て同じ顔をした、ロボットの様な大人達。
 緑と光に囲まれた空間に、重圧感を与えている老人。
 挨拶を交わす父親の背中が強張っているのを、子供心にも不思議に思ったのだ。言葉少なに頷いている老人に、その場にいた人間達の意識が集まっている事さえ、無意識感じ取っていた。
 父親に背中を押され、たどたどしく挨拶するオレに、その老人は無言で頷くだけで、それでも、それだけで、少年の心には重圧を感じさせたのだ。
 計算し尽くされた精密機械のような広い庭園に集まっているのは、二、三十人程だろうか。しかし直江以外に子供の姿は無く、自然と退屈を持て余してしまう。
 父親の方はといえば、知らない男と何やら難しい顔をして話し込んでいた。
 その様子を見て、少し考える。
 直江は、大人社会から見て、手間の掛からない所謂良い子″であった。五歳になっていたが、他の子供の様に騒いだり駄々を捏ねたり、決してしない、しかも持って生まれた賢さが徐々に出来上がってきている、自慢の息子″だったのだ。そんな直江でも、やはり子供特有の好奇心には勝てずに、父親の様子を伺いながら退屈な大人達の場″を離れて行ったのだった……



 それから?

 その後、何があった……?



 確かに残っている記憶を辿ってみる。
「……でも…苗字が……」
 彼は『仰木高耶』だ。
 『北条』、では無い。
 直江の疑問に、千秋はアッサリ答えた。
「離婚、とかさ」
「離婚?」
 あんな家″に、離婚など許される筈が無い。
 北条、が血の繋がりに拘る一族である事は、有名だ。
 この世界では、結婚自体仕事の一つで、本人同士の意志など、そんなものは無いに等しい。生まれた瞬間に、運命が決まる、そんな北条家。最も、この学園にいる生徒達には概ね、そんな家の生まれが多いのだが。
 無論、直江もその一人であった。
 今現在婚約者と言う存在はいないが、近い将来親や周りが勝手に決めて、それを受け入れる、そう思って生きてきた。何の疑問も抵抗も無く、それ・・が直江にとっての現実で、そう――彼に会うまでは――― だから今は、それ・・について深く考える事を拒絶しているのだ。
「だからよ、飽くまでも噂だよ。気になんだったら本人に訊いてみりゃいいじゃん、お前寮長なんだから、一応」
「何だ、一応、ってのは」
「別に。でも何だかんだ言って、世話してやってんじゃん、色々」
「……」
 色々″に他意を感じ、また黙り込んでしまう。そんな直江に、千秋はやっと雑誌を閉じて顔を上げた。
「お前さぁ、分かってないだろ」
 以外に真剣な友人の声に、自然と眉根が寄せられる。
「何を分かって無いんだ?」
「仰木高耶、に決まってんだろ……だったら説明してやるよ。あの一年、仰木がどんな風に見られてんだか、それはまさか知らねぇ、とは言わねぇよな…?お前自身がどんな存在だってのも」
「そんな事……知っている」
「いや、分かってねぇよ。分かってたらしょっちゅう部屋に連れ込んだり夜遅くにアイツの部屋から出て来たりしねぇ筈だ」
 責める色の無い千秋の言葉は、淡々としている。
「俺、は……ッ」
 連れ込む″と言う言葉に反応して思わず椅子から立ち上がった直江に、しかし千秋冷淡な程落ち着いていた。
「お前等がどういうつもりなんだか知らなねぇけどな、周りはそう見てる、って事。いいか?周り″がそう思えばそれ・・が真実になる……それが現実だ。そんな当たり前の事、お前が一番良く分かってんだろ?」
 感じる、痛み。
「……あぁ、分かってる」
 熱が一気に引いた様に、乱暴に椅子に腰を戻す。
 閉鎖された空間で、同性間で性交渉を含む恋愛が交わされているのは、周知の事実だ。しかし、それは飽くまでも水面下で″と言う条件の下で見て見ぬ振り、と言う名の赦しを貰える。、決して、大っぴらにしてはいけない、それは暗黙の約束事なのだ。
 勿論教師達も当然知っているのだろう、しかし、それ・・に触れる事は無い。しかし飽くまでも物的証拠″が浮き上がって来ない事を、前提としている。
タブー″を犯しては、いけないのだ。それが、ここで生きる暗黙のルールだった。
「……分かって…る、さ……」
 初めて見る友人の苦渋に満ちた表情に、千秋はため息を吐いた。
「お前さ、マジなのか?」
 何に、とは訊かない。
「お前には関係無い」
 しかし直江は、苛付いた様に吐き捨てた。放っておいて欲しかった……彼との、静かな時間を。
 自分達はただ、息を潜めてお互いの存在を拠り所にしているだけなのに、お互いの体温を感じて、眠りにつきたいだけなのに。
 拒絶を示す直江の態度にも、千秋は怒りもせずに静かな声で続けた。
「あぁ、関係無いな、あってたまるかよ、だけどな……これ以上話がデカくなれば、周囲が黙っちゃいねぇと思うぜ」
「……」
 千秋の心配は、彼が北条″だと知った上で初めて浮上して来たものだろう。相手が北条ならば、教師達は異常な程敏感になるのが分かり切っているからだ。
 運命の決まっている北条の一族の者に、もし何かあれば、その責任は重い。下手をすれば、この学園の存続にも影響せざる得ないのだ。
 だから、彼の噂"が、学生達の間でも大きくなれば、大人達は動きを起こすだろう。迅速、かつ無情な採決が下され、それでも収まらない場合、報告は瞬時に北条に伝わるのだ。
 他の誰か、彼では無い別の人間なら、こうまで千秋が深刻になる事は無いだろう。
「相手が、悪い……」
 疲れた千秋の声に、直江は黙っていた。
 その時だった、

 コン コン

 沈黙を破るノックの音が響いたのは。一瞬だが、千秋の目が鋭く細められたが視界の端に映った。
「出ろよ」
 この、控えめなノックの音は、そのまま彼の人柄を表している。
「どうそ」
 カチャ
 静かな音と共に顔を見せたのは、やはり彼だった。
「寮長」
 穏やかな笑顔が、千秋の存在を見止めた瞬間、凍り付く。しかしそれは一瞬で、直ぐに人当たりの良い笑顔になった。
「今晩は」
「よぉ」
 手を億劫そうに上げて挨拶する千秋の顔には、彼に対する関心の欠片も見当たらない。
「……今晩は…」
 声のトーンが、少しだけ変わった。言葉の行き場を失くした彼を一瞥すると、千秋はベッドから起き上がりそのままドアに向かう。突っ立ったままの彼は、そんな千秋の背中を見詰めていた。
「千秋」
 直江の声に、ノブを掴んでいた千秋の手が止まる。何故千秋を呼び止めたなんて、そんな理由、分かる筈無い。
「直江、俺が言った事、忘れんなよ」
 背中を向けたまま抑揚の無い声で言い捨てると、千秋は今度こそ振り返らずに部屋を出て行った。残されたのは、椅子に座ったままの直江と……所在無さ気に立ち尽くしている、彼だけ、だった。
「仰木君」
 少しの間だけ落ちた沈黙を破ったのは、直江の低い声。
「……はい…」
 丁度部屋の中央に立っていた彼が、ゆっくり俯いていた顔を上げる。
 その瞳の中にある哀しい色に、唇を噛んだ。
「こっちに……」
 立ち上がって手を差し伸べると、素直に腕に収まる細い躯。
 再び、沈黙に支配された部屋には、カーテンの隙間から十六夜の月明かりが細い線を床に成形している。しかしそれに何時もと違い、幸福感に身を委ねる事が出来ない。

「……北条……」

 呟き、とさえ言えない、小さな囁き。
「――ッ?!」
 その瞬間腕の中の、彼の躯が強張るのを感じた。
 それは紛れも無く、肯定を示すもの。
 赫いものが、目の中で点滅する。


 何を、見た……?



 ―― 引き鉄は、何だったのか ―――



「っあ……ッ?!」


 細い、悲鳴

 ドン
 鈍い音に床を見下ろすと、彼が頬に手を当てて蹲っている。直江はジンジン痛む手と彼を、交互に見比べた。
「……」
 原因は、直ぐに判明する。

 彼を――殴り付けたのだ――

 呆然としていたのは、ほんの数瞬であった。
 スッ、と冷たい何かが、心を凍らせていくのを感じる。
 腰を屈めて、まだ状況を把握出来ていないらしい彼の胸倉を掴むと、乱暴にベッドに突き飛ばした。
「……」
「……」
 彼は怯えた目を向けるだけで、何も言わない。直江も無言で、ベッドに両腕を押し付けた。それは力いっぱい握り締めたら砕けてしまうそうな、細い手首で、その細さに眩暈を起こす。
 制服のシャツを左右に引っ張ると、呆気無い程簡単にボタンが弾け飛んだ。
「……りょ…ちょ……」
 やっと口から出た声は哀れに震えて、彼の心情をこれ以上無い位表している。そんな様子に、蹂躙している手を止めた。
「……どうして…だか、分かりますか?」
 抑揚の無い声は機械的で、彼の恐怖を煽っているんだと、何処か遠い所で考える。必死で首を振る彼の目尻に浮んでいる水分に、そっと唇を当ててみた。
 衝動が、膨れ上がる、 
 制御は、不可能だった。
「……」
 彼の眸が、何故、と訴えている。
 何故、なんて訊かれても、答えられる筈が無かった。それを一番知りたいのは、直江自身なのだから。
 露になった胸は、眩暈がする程白く、痛々しささえ感じる。そっと手を這わすと、大きく躯が震えた。
「オ、レは……」
 声が震えるのを何とか押さえようとする彼の言葉が、何かを刺激する。それ以上聞きたくなくて、もう一度微かに紅くなっている頬を殴った。
「っ!」
 混乱していた所為で、手加減無しのその行為に、今まで微かにだがあった彼の抵抗が消える。グッタリと投げ出された肢体に、何かに急かされる様に、手を伸ばした……

 遠くで、誰かが泣いている。
 頬に暖かさを感じて、そっと瞼を開いた。
「仰木……君…?」
 暖かな白い指先が、振るえながら頬を辿っている。そして彼の指が濡れているのを見て、初めて泣いている事に気付いた。そして、泣いているのは自分だけではなかった。




 どうして、泣いているの?
 どうして、そんな哀しそうな目で見るの?
 どうして、指先がそんなに優しいの?



 乱暴に押さえ付けて強引に貫いたのだろう、鉄分の匂いが部屋に漂っている。
 初めて、だった。
 彼に触れて、抱き絞めて時を過ごすのは何度となく繰り返してきたが、情交に及んだのは、これが初めてだった。意識が何かに奪われている間に、彼を犯していたのだ。言葉に尽くせぬ苦痛、痛みが、確実に彼を襲った筈だ。
 それなのに――


 どうして、そんなに綺麗なの――?


 
 堪らなくなった。
 堪え切れない嗚咽が、喉の奥から吐き出される。何時の間にか、彼の胸に顔を埋めて、その白く滑らかな場所を涙で濡らしていた。髪を撫でてくっる手が、優しい。
 壊れて、しまった、何かが、きっと。それをきっと彼も感じているのだろう、顔を上げて覗き込むと、哀しみしか感じさせない透明な笑みを浮かべた。
絶望″と呼ぶには、余りにも甘美な空間。
 微笑む彼に、やっと俺も笑顔を返す事が出来た。
 そして、再び彼の胸に耳を当てる。
 


 心音の規則正しさに包まれる至福の中で、


 そっと眸を閉じた---