5


 千秋の頬に、水滴が伝って流れれいく。それは雨なのか、それとも他の何か・・なのか。それは千秋自身にも、分からない。
 彼についての噂が広がっていると聞いたのは、千秋からだった。
「そりゃ、噂にもなるよな……首とか腕とか、チラッって見える所に何時も青痣だしよ」
 辛辣な言葉に、しかし何処か哀しい眸で友人は言う。それでも黙っていると、ため息が漏れたのを聞いて、机から振り返って何時もの様にベッドに腹這いになっている千秋を見た。
「お前等が納得してんなら、オレが横から何か言う事じゃねぇ、って事は分かってる……でもよ、直江、お前は...平気、なのか?」
「……」
 多分、何処か壊れているのかもしれない。千秋には、それが分かっているのだろう。
 ――北条――
 それは禁忌の言葉で、でも、どうしてなのか、記憶に霞みが罹って鮮明なビジョンが現れてくれない。
 そして霞は……薄紫、だった。
「千秋、俺は大丈夫だから、だから……放っておいてくれ」
「そっか……そうだよな…あぁ、分かってる」
 当事者以外で唯一二人の関係を知っている千秋は、それでも暖かい目で見守ってくれているのだと思う。
 彼について初めは良く思っていない事も知っていた。でも飽くまでもそれは初期段階に限ってであって、今は彼に対して同情に似た視線を送っているのを知っている。それさえも、闇に落ちてしまった心には、余計なものとして映った。
 ふと、考える。
 彼は何故、こんな関係を受け入れているのだろう。
 今まで彼が抵抗した事は無い。何時も、当然のように彼を自由にするオレに、彼もまた当然の如く受け入れていた。だから、こんな疑問を持つ事は無かったのだ。
 あの雨の日、初めて彼を抱き締めた時には、確かにこの闇はなかった――の、だろうか?
 気付かなかっただけで、彼を見た瞬間、それはジワジワ心臓こころを侵食していたのじゃあないのだろうか。そして……彼はその事実を――自分でさえも気付かなかった――感じ取っていたのでは、なかったのだろうか。
 れは何故、離れていかなかったのか。絶望で彩られたこの甘美な衝動の側に、身を置いていたのだろうか。
 思考は、そこで止まる。
「……」
 考えても、どんなに思いを巡らせても、分かる筈が無いのだから。彼の心は透明で、でも、だから、俺に掴む術を与えてはくれない。

 ただ一つ分かっているのは―――





 全てがもう、手遅れだ、と言う事だけだった―――










 それ・・が起こったのは、期末試験も終わり、夏休みまで後僅かの時期であった。
 高耶と直江が出会い、哀しく、複雑な関係を持ち始めて三個月程経ち、夏の日差しが厳しくなってきた季節。
 明けた梅雨は、ジットリと重々しい湿気だけを残して、去っていったらしい。地方都市からまた更に離れた場所にある学園では、夏休みの帰省で浮き足立っている。千秋は帰りたくない様子だが、親に煩く言われてウンザリしていた。しかし直江はどうするのは高耶は知らないし、また直江も然り、だった。
 その事に付いての話題が出る事は、それ・・が訪れるまで二人の間に上った事すら無い。彫金芸術を思わせる学園の正門前、黒塗りのリムジンが乗り付けられたのは、そんな七月の終わりであった。




 授業が終わり、片付けをしている高耶の所に担任がやって来た。
「仰木君、ちょっと」
「はい?」
 ついて来て欲しい、と言いたいらしいジェスチャーに従って、担任の後について教室を出る。
 夏の蒸し暑さの中、他の生徒達が半袖の夏服に変わっている中で、高耶は長袖を着続けていた。周りの生徒達はそこに何か感じているらしいが、敢えて口にする者はいなかった。以前高耶に絡んで千秋に言い様に痛め付けられた者達の事を、忘れた者がいなかったからだ。それだけ学園中の、千秋の存在が重い、と言う事だ。その透けるような美貌に惹かれ近付く者もいなくは無かったが、高耶自身、上手く翻していた。
 一人長袖を着る彼の周りにだけは暑さなど存在しないかの様な清々すずしさがあり、汗一つかかない様子はまるで別の生き物を思わせ、それ故に返って近付き難い空気を纏っている。教室での彼は静かに本を読んでいる事が多く決して目立つ存在では無い筈なのに、誰もがその空気を意識しているのだ。


 奇妙な騒めきの教室を後にして、連れて行かれたのは学長室だった。直ぐに何かを悟った高耶の表情が変わったが、それを見る者はいなかった、もっとも、その変化は微かなもので、ほんの少数の人間しか分からなかっただろう。
「仰木君?」
 扉の前で止まってしまった高耶を、訝しそうに担任が呼ぶ。
「気分でも悪いのか?」
 まだ若く教師を始めて二、三年程しか経っていないこの男は、良くも悪くもあらゆる物事に関わる事を心情としているらしく、造りものの様な生徒―――高耶に対しても、何かと声を掛けてくるのだ。
 心配気に俯いた顔を覗き込んでくる。
「何でもあるません……大丈夫、ですから」
 笑みを作って見せてやると、一瞬担任は呆けた表情になった。
 高耶の薄い笑みは、人の目を奪う。そこにあるのが綺麗″だけでは無く、何か別のものを覆い隠している危うさが、余計に人の目に焼き付いてしまうのだ。
「なら、いいんだけど……気分が悪いなら言いなさい」
 教師らしい事を言うと、取り繕う様にコホン、と咳払いをした。
 コン コン
 細かい彫刻が施されている飴色の重厚な扉に、担任の手で陰が出来る。
 扉に埋め込まれている翼を広げた鳥をボンヤリ見ていると、スッツ、と視界から翼が消えた。扉が、開いたのだ。
「失礼します、仰木君を連れて来ました」
 部屋の入り口で一礼する担任の背中を見て、部屋の中に視線を移した。
「……」
 視線が、合う。
「久しぶりだな」
「……はい……」
 それは絶え難いもので、だから高耶は直ぐに、その視線から逃げる様に俯く。
 視線の先に、自分の靴先が見えた。扉の前から動かない高耶を促して、担任は一人その場を後にする。
 パタン
 背後で、扉が閉ざされる。
 閉まる音さえ、重いものだった。
 閉じ困られた鳥は、その羽の存在感をどう受け止めるのか。
 一歩、足を動かして赫い絨毯を踏んだ。
「期末試験の結果を聞きました。仰木君は中々優秀なようですね。北条さんも先が楽しみでしょう」
 阿るような学長の言葉に、男―――北条は口元を歪めた。思わず顔を上げた高耶はだから、見てしまうのだ。それは今までに何度となく見てきた表情と同じもので、目の前が暗くなっていくのを感じる。
「高耶」
 名前を呼ばれて、肩が揺れる。
「――はい」
「今学長と話をしていたんだが、試験も終わり後は終業式が残っている位だそうだ。お前は今から私と小田原に戻る」
 えっ?!と顔を上げると、北条はもう高耶を見ていなかった。
「車で待っている、早くしなさい」
 反論を許さない命令し慣れた言葉の響きに、高耶は黙って自分の靴先を見詰めた。
 既に関心が離れたのか、北条は背中を向けて学長と話をしている。高耶は一礼して、黙って部屋を出た、痛みに耐えるよう、目をキツく綴じながら。
 パタン、と重い音と共に扉が閉まる。最後に顔を上げて見た高耶の視界には、あの男の後姿が飛び込んできた。
そして、消える。
 その途端、フッ、と肩から力が抜けた。
 どうやら知らず知らず躯に力が入ってしまっていたらしい。
 何故態々こんな遠い場所まで足を運んだのかは分からないが、男の命に従う″以外の選択肢は無い。本当なら何とか理由をつけて休み中寮に留まろう、と考えていたのが、それは足元から崩されてしまった。
 確かに、小田原には帰りたくない。
 あの場所は、鬼門で禁忌で――
 だが、それだけでは無い忌まわしい記憶に苦しめられる事が分かっているから。それよりも何よりも、高耶の心を占めているのは、当然ながら直江の存在だった。
 自分を殴りつけ、蹴り上げる彼の、氷の様な無表情の下の苦しみが、痛い程分かる。それを与えているのは、他でもない、自分なのだ。
 直江はきっと、覚えていないのだろう。
 それでもそれ・・は確かに彼の直江の記憶を蝕み、喰らっているのだ、徐々に、徐々に。直江本人さえ、気付かない場所で。
「……」
 高耶には、それ・・がはっきりと、禍々しい鮮やかさで進行していくのを、ただ見ている事しか出来ないのだ。
 ボンヤリ歩いて行くと、何時の間にか直江の部屋の前に立っていた、直江がまだ部屋にいない事は分かっていたのだけれども。
 実際仮にいたとしても、何を話していいのか高耶には分からない。
 もう、行かなくてはならない。
 行きたく、ない
 行きたくなんか、ない。それでも状況はそれを赦してくれる筈も無く、無意識に震える手を握り締め、踵を返す。
 唇を噛み締めたその眸には、限り無い絶望の色に彩られていた。それでも何とか気力を振り絞り部屋に戻ると、身の回りの物を大き目のトランクに詰める、淡々としたその行為に、心を切り離す努力をしながら。
 トランクを引き摺りながら廊下に出ると、既に人口密度が少なくなったのか、何時に無い静寂が流れていた。カラカラ、トランクの車輪の音が、ヤケに大きく聞こえる。
 長い廊下の終点にある階段をトランクを持ち上げならが降りていると、登ってくる者の気配が近付いて来た。
「あれ?お前帰んの?」
 千秋であった。
「えぇ……」
 何と言っていいのか分からず、言葉尻が濁ってしまった。このまま通り過ぎて欲しい、と願ったが、それを見逃してくれる男では無い。
「随分急だな、直江は知ってんのか?」
「――え?」
「だから、お前が帰省する、って事だよ」
「……」
 黙り込んでしまった高耶に、千秋の表情が険しくなる。
「……もう、行かないと……」
 軽く会釈して横を通り過ぎよ様とした高耶の腕を、咄嗟に掴んだ千秋はハッ、となって、次の瞬間腕を開放した。ハァ、とため息を吐くと、悪い、と小さく呟く。
「別に、オレには関係ねぇしな……でもよ、直江に一言言ってから帰った方が良いんじゃねぇの?」
 この先輩が何かと構ってくるのは、直江の友人だからだろうけれども、それでもそこにまた何か別のものが潜んでいる様な気がしてならない。しかしそれは決して欲望を含んだ汚れたものでは無く、若(し)いて言えば、観察、否、監視者のそれに似ているもので。
「時間が無いので」
 でも、実際どんな意味があるのかなんて関係無いし、興味もそうない。そんな事よりも校門に停めてある車では、北条が待っているのだ。遅れれば、男の機嫌が悪くなるのは、火を見るより明らかで。それが、怖い。
 心身に染み付いた恐怖は、決して消える事は無いのだ、例え何時の日か薄れても、魂核に染み付いたそれ・・が、消滅する事はありえない。
 まだ何か言いた気な千秋にもう一度黙って頭を下げると、そう重くは無いトランクを持ち上げながら階段を降りて行った。
 重いのは、一歩一歩進む足だ。
 出来るだけ感情を殺して歩いて行くと、目の前にゴシック調の黒い、銅製の飾り門が近付いてくる。3mはあるだろう高い芸術品は、まるで訪れる人達を威圧する為に存在する様だ。『境界線』は、外界から高耶を守ってくれていたのか、一歩外に足を踏み出した途端、足元が失くなっていく様な、心臓がスーッ、と下がって行く感触が襲った。
 そして、振り返る。
「……宇宙…船……」
 何時か直江が言っていた。ここは、緑に守られた宇宙船なのだと。
 その時は直江の口から零れる言葉の綺麗な響きに、意識を宇宙に飛ばしたのだ。そこはとても心地良く、何時までも漂っていたい場所で…

「高耶」

 名前を呼ばれて、肩が揺れた。
 抑揚の無い冷えた声は、心までも凍らせる。ゆっくり振り返ると、リムジンの開いた窓から北条が見ていた。3mと離れていない場所から、ジッと感情を見せない眸で見据えられると、無意識に背筋に震えが走る。
「早く乗りなさい」
「…はい……」
 荷物を受け取った運転手に後部座席のドアを開けられ、既にシートに座っている人物に視線を合わせない様、乗り込む。
 静かな振動を感じて、滑る様にリムジンは走り出した。緑の樹々の合間にある細い路を走る箱の中身は、高耶にとって苦しみを象徴するものでしかなく、沈み込んでいく心を誤魔化す様に、ジッと窓の外を流れる風景を見詰めているしか術が無かった。
「高耶」
 どの位走ったのか、風景は一変していて緑色の樹々は姿を消し、くすんだグレイの色彩に囲まれていた。突然声が掛けられたののは、高速を延々走っている最中だった。
「…はい」
「お前に合わせたい人間が待っている、そのつもりでいるように」
「……分かりました」
 誰、とは訊かない。意味の無い事だから。
 高耶に拒否権は無く、ただ命令通りに動くだけだ。
 心を持たなければ辛くなど無い、無い筈だったのに、今はこんなにも泣きたくなるのは――出会ってしまったから。
 誰にも言っては、いけない。特に、この北条には。
「……」
 不意に込み上げてくる何かを耐える為に、もう一度外に視線を移す。
 外界は真夏の熱気に包まれているが、この高耶を取り囲む空気は、何処までも冷え切っていた。もうすぐ小田原に着くのだろう、見覚えのある風景に、それを見たくはなくて高耶はそっと目を綴じた。