7


 樹々が熱気を遮断しているのか、学園内は涼しく日が落ちると肌寒ささえ感じる。隔絶された空間には、熱さえ遮ってしまうのか。
 以前彼にここの夏の涼しさを話した時宇宙″だからかもしれない、と笑っていたの思い出す。
 瞼を、閉じる。
 声も空気も明確に脳裏に再現出来るのに、どうしても笑顔・ ・だけが分からないのだ。
 白く霞掛かってしまうそれを、オレは懸命に探り続けた。
 家からは帰省しろと何度と無く言われていたが、帰るつもりなど初めから無い。漠然と、夏を彼を過ごす、と思っていたけど、実際一人帰省してしまっても、それもまた、当然の様に受け止めている自分がいた。
 ほんの少しだが、ホッとしている部分もある。これ以上、彼を疵付けなくてもいい、と。
「オイ、飯行けねぇの?」
 微かに開いていたドアから、千秋の顔が覗いた。
 この友人も、数少ない居残り組の一人だ。確か、去年も自分と同じく寮に残っていた。もしかして、何か事情があるのかもしれなと思うけど、それを訊く事な無い。千秋の方も、俺に対して何か質問や詮索する事は今まで一度も無かった。そうやって、俺達は今まで、ここ・ ・で過ごしてきたのだ。
 返事の代わりに無言で椅子から立ち上がり、並んでカフェテリアに向かった。
 休みに入ってまだ二日しか経っていないが、何度も彼が薄紫に囲まれている情景を見た、まるで白昼夢のように。
 夜になると、俺は細く白い、彼の首を両手で締め上げていた。苦痛を漏らす声は聞こえるのに、何故か彼の表情はボヤけてハッキリしない。だからそれが哀しくて、細い躯が事切れるまで力を緩められない。込み上げる吐き気に目を覚ますと、カーテンの無い窓から赫い月が禍々しい光捻じ込んでいる部屋で死にたくなる衝動を必死に押さえている。
「オイ……お前ヤバいんじゃねぇの?」
 トマトとアボガトの冷制パスタを頬張りながら、千秋がポツリ、と言った。
 何が、とは、言わなくても通じる。それでも俺が何も言わないと、態とらしくため息を吐いた。
「あのな、俺は別に首突っ込みてぇんじゃねーけどよ……」
 そこまで言うと、一旦口を噤んだ。
 一体何を言いたいのか、蕎麦を食べる箸を置いて正面から見詰め返すと、観念した様に再び口を開く。
「……前にも言ったと思うけど…止めとけ……アイツは、アイツだけは……」
「黙れ」
 千秋が真剣ならば真剣な程、自分でも不思議な位怒りが湧いてくる。
 心配してくれているとか、親切から言っているとか、そんなものどうでも良かった。他の人間の口から彼″の事を聞くのが、耐えられないのだ。
 憎しみさえ、感じる。
 だから、

「黙れ」

 もう一度、言う。
 手の中で箸が折れた事にも、気付かなかった。
 痛ましそうな千秋の瞳が、酷く苛立たしい。だが、次の瞬間ガラッ、と表情が変わった。その変化に一瞬怒りを忘れてしまった。
「直江、俺を裏切り者にするな」
 厳しい、初めて見る真摯な顔に、言葉を失くしてしまう。それでも辛うじて保った怒り温度で、低い声が出る。
「……どういう、意味だ……?」
 何かある、直感で感じる。
 彼に関係する、何か、が。
「お前、人生を棒に振したくなきゃあ、アイツの事は忘れろ……なぁ、考えてみろよ、アイツに会ってまらまだ三ヵ月半だぜ?唯の後輩、それでいいじゃねぇか。ハッキリ言ってやる、俺はアイツに近付いて欲しくない」
「…理由を言え」
 怒りを覚えたが、それよりも何よりも、何か重大な事がそこにありそうで、意外な程頭が冷えてくる。
「いいぜ」
 ヤケにあっさり言う千秋に、訝し気な視線を向けた。
「その代わり……お前はアイツから手を切れ」
 そうきたか、浮んできたのはそんな台詞。
「それとこれと、どう関係がある?」
「それは聞けば分かる、関係?大有りだ。アイツに付いての重要な事実だ……どうする?」
「聞く」
「で?」
「手も、切らない」
「……」
 ハッキリ何の戸惑いも無く言い切った俺に、始め千秋は呆けた顔をしていたが、その内肩を震わせて笑い出した。
「ククク……ッククッ……ヒャ、ハハハハハッ!」
 不健康さの欠片も無い千秋の笑いに、自然に苦笑が漏れてくる。多分千秋には、俺がこう言う事が初めから知っていたに違い無い。
 彼が現れてからのこの友人は、それを境に純粋な味方″ではなくなったのを肌で感じていた。だからその原因が彼に関係するのだと、意識の下で分かっていたのだ、自分は。
 でも、それをハッキリさせたくなかった。怖かった……のだと、思う、今と、違い。
「千秋」
「はいはい」
 笑いの発作が落ち着いた千秋に静かに言うと、軽い感じで返される。
千秋の口調は先程とは違って、何時もの気楽な人を食ったものに戻っていた。
「俺は監視者.・ ・ ・だ」
「え?」
 天気の話でもするように言う意味が、一瞬把握出来ない。
 不思議な顔をして見返した俺に見せた千秋の表情は、今まで一度も見た事の無い、哀しい、とも諦め、とも、或いは憤り、とも取れるもので。それでも笑顔″で、俺は言葉を失くした。
「北条が、俺の親父に頼んだ……否、違うな……立場から言って台詞は違うけど命令″だな。兎に角北条に言われた親父から俺に回ってきた、って訳だ」
 肩を竦めて、口元を片方だけ引き上げた。
「で、親父の為に、っつーかまぁ、バイトだな、俺はそれを引き受けた」
 お分かり?と残っていたパスタを口に運ぶ。
「……北条は……彼を監視しろ、と……同じこの学園に息子がいるお前の父親に頼んだ……」
「そぅ、察しかいいね、そういうこった」
 これで、自分の中で話が繋がった。
「……」
 黙り込んでしまった俺をどう思ったのか、千秋は深いため息を吐く。
「俺もあんまり詳しい事は訊いてねぇけど、アイツはヤバい。親父の話だと監視″って言っても弟を心配して、って感じじゃあ無かったって、何て言うか……観察……そう、実験動物とか実験体を観察しろ、って言う感じだったって言ってたっけ……親父も断れねぇし、まぁ、たまには親孝行でも、っつーか貸し作っといても損はねぇな、って思ったんだよな」
「……で、お前は何て?」
 千秋の、彼に対しての干渉の意味は分かったが、その結果を何て言って父親に報告していたのかが、気にならない筈が無い。
「品行方正、成績優秀、オマケに美人」
「それだけ……じゃ、無いだろ?」
 彼に関する報告なら、その中に自分との関わりが含まれて無いのは不自然だ。
「まぁ、そうだな、面倒見の良い寮長に色々・ ・世話になってて、今ではすっかり仲良しよ、ってか?」
 色々、を強調して言う千秋に眉根が寄る。果して何処まで話していたのか。
 正直、彼との関係が回りに知れるのをそう深刻に考えていない。それよりも、周りの干渉に拠って不具合が応じるのを、不快に感じる。
 そんな俺の考えを読んだ様に、千秋はニヤニヤ笑った。
「心配すんなって、話したのはそんなトコで、お前等があーんな事とかこーんな事とかしてるのはチクッてねぇからさ…でもよ、良い機会なんじゃねぇの?この休み。お前もアイツと離れて頭冷したら?」
「頭、ね……俺はそんなに逆上せ上がってるか?」
 苦笑しながらの台詞は、千秋の打って変わった苦々しい表情と供に出てきた言葉に、止まってしまった。
「逆だよ」
「ぇ……?」
「浮かれてるとか、逆上せ上がってる、とか、そういうのと逆の所にいんだろ、お前。ハッキリ言って異常だな……」
「!」
 自分でも分かり切っていた事を言われたのよりも、その言葉に含まれる棘に驚愕する。
 完全に向き合うと、千秋は初めて見せる冷徹な顔を曝していた。
「直江、オレに期待″すんなよ」
 言ってる意味が、分からない。
「俺がお前等の側″に付く、って考えんな、って言ってんだ」
 千秋の目が、スッ、と細くなった。
「……」
 発せられる酷薄な空気に、俺は言葉を失くしただ、目の前の友人だった・ ・ ・男の顔を凝視していた。













「高耶って北条さんと全然似てないね」
 
 7月が過ぎ太陽は8月の熱気を発している。
 譲は小田原に滞在している間、徹底的にオレを拘束した。数少ない洋室であるゲストルームに呼び出し、言葉で疵を与えた。
「ぇ……?」
 言われた言葉の意味を把握した途端背中に震えが走るオレを見て、嘲笑を浮かべる。
「こっち来いよ、高耶」
 逆らえない命令にフラフラ近付くと、いきなり後ろ髪を引かれ、ソファに倒れ込んでしまった。そのまま上に馬乗りになり、髪を掴んだままの手に更に力を入れて、強引に上向かされる。余りの痛みに、生理的な涙がこめかみを伝うのを感じた。
「そっか、北条さんは父親似で高耶は母親似なんだ。でも普通、本の少し位は似てる所あんのに、珍しいね」
「…譲……い、痛、い……」
「クスクス……痛い?」
 心底愉しそうな譲に、言葉を失くす。
 黙って眸を綴じ痛みを遣り過ごそうとしていると、唇に濡れた感触が走った。
「!――――ッ?!」
 鋭い痛みが襲い、咄嗟に上に乗る躯を突き飛ばす。
「酷いなぁ……クスクス」
 口の中に鉄の味が広がった。噛まれた上唇が熱を持って、熱くなる。
 譲は何を知っているのか、何故このイカれた、様々な行為をぶつけてくるのか。
 そんな疑問を、訊ねる勇気は無い。
 多分顔色は、限り無く悪い筈だ。それは譲の笑顔を見れば分かった。
 初めてあの部屋で会った時から、成田譲の行動は徹底していた。
 単純に殴る蹴る、などの暴行をする訳じゃあ無いけど、反抗し難い、今の様に髪を引っ張ったり痣になる程強く抓ったり、戯れに突き飛ばしたりする。
 この広屋敷内では、家政婦の食事の合図や風呂の合図以外に、一日中二人切りでいる日も少なくなかった。
 あの、突然連れ帰られた日から、北条には会っていない。仕事で東京に家のある男が小田原ここに余りいないのは珍しい事じゃあ無いのだが。その閉鎖された屋敷内で、まるで小さな子供が新しい玩具を与えられた様に、譲は嬉々としてそれらの行為を行うのだ。
 そのキラキラした眸の中には、悪意の欠片の無い。それが高耶には余計に恐ろしいかった……
 
「ねぇ、おれ高耶の高校見たいな」
 突然の言葉に、意味が把握出来ない。
「―――ぇ……?」
 だが出来た途端、心まで硬直した。
「だからさ、おれ日本の高校って行った事無いんだよ、だから一度見たいって思ってたんだ」
「ぁ、ぇ……でも……」
 真っ先に頭に浮んだのは、大切な、大事な、守らなくてはならない男の顔。

 あの、二人の自分.・ ・ ・ ・ ・を呆然と見詰めていた、まだ小さい少年の、直江。

 薄紫は、綺麗に毒を包み込み、最後には飲み込んでしまったのだ。
「……」
 口を噤んでしまったの注意を向かせる為なのか、譲は唇に付いている滲んだ血液を舐め取った。
「大丈夫だよ、北条さんにはちゃんと言ってあるから、何ならまた小田原こっち戻って来んの面倒臭いなら、ちょっと早いけど寮に戻れば?おれも夏休み、日本の寮で過ごしてもいいかな、って思ってるし」
「……そう……」
 譲がしたい″と、言えば、それはもう、決まったと同じだ。しかも北条にも話が通っているなら、高耶の意見の必要性は皆無だ。
「もう2週間位いたんだから、もう寮にも戻ってもいいよね?高耶も。別に厭じゃ無いだろ?」
「あぁ……そう、だな……」
 前髪で顔を隠しながら何とか声を絞り出すと、やっと譲は馬乗りの姿勢を解除する。
 重みから開放されたのに、心には更なる重圧に犯されていく感覚に唇を噛み締める。止まった血が新たに滲み出てきて、その甘さに高耶はそっと唇を舐めた。







 翌朝、変わらない夏の恒星は、人間達に暑さと言う名の苦痛と陶酔を与えていた。それでも屋敷内には何処かヒンヤリした空気が敷かれていて、肌に纏わりつくそれの感触に、寒気がする。
 今日、宇宙船に還る、譲と一緒に。
 何を思って寮に滞在する事を望んだのかは、分からない。ただ譲と時間を供にする事は苦痛の上にしか成り立たず、ただ時の過ぎるのを息を潜めて待つしか術が無く。だがそれが、寮長のいる空間ならば、何かが変わるだろうか?
「……」
 ゾクッ、と何かが躯を触った。
 触手と似ていて、それでも違う、何か。
 直江と譲、同じ空間にいて欲しく無い、漠然と浮んだ願い。
 彼が帰省していると、良い。
 無意識に布団の中で両手を合わせて、それを握り締めた。
 眸を、綴じ、ただ一心に祈る。
 その願いが決して叶えられないのを、知りながら。




「高耶、起きてる?」
 朝、返事を待たずに、襖が開かれる。ビクン、と躯が揺れた。
 譲よりも早く起きている高耶は、まだ布団に潜っている状態で会うのは初めてで、内心酷くうろたえてしまった。
「どうしたの?今日は遅いんだな」
 子供の様な好奇心と言う名の鋭い視線を向けた、と思うと、直ぐに悪戯を思い付いた無邪気な表情に変化する。
「……」
 紛れの無い恐怖に、喉がひり付いて声が出ない。そして恐れた通り、譲はクスクス嗤ってまだ布団の中にいる高耶の上に、馬乗りになった。
「ゆ、譲……」
「クスクス……朝は元気なの?高耶は」
 そう言いながら、いきなり夏掛けを剥ぎ取ると、浴衣の上からペニスを遠慮無しに握り締めた。
「痛……ッ!!」
 余りの痛みに、一瞬呼吸が止まった。
「何だ、朝立ちしてないや」
 期待したものを得られなかった苛立ちからか、益々力を込めてくる。
「ゆ、譲……イ、タイ……止め……」
 弱々しい抵抗に、表情が変わった。それは猫が瀕死の状態になりながらも逃げようともがく、昆虫などを無邪気に、遊んでいるつもりで、徐々に死に追い遣っていくそれ″に似ている。
「ダメだよ」
「―――ッ!」
 譲の腕を掴む高耶の手を鬱陶しく感じたのか、その手の甲を抓り上げられた。
 相次ぐ痛みにグタッリして力を無くした高耶を見下ろすと、そのまま立ち上がり自分より多少長身で、そして自分よりも華奢な躯を抱き起こす。
「早く起きろよ、お前の高校行くんだから」
 そう言い捨てると、そのまま部屋から出て行ってしまった。
「……」
 やっと躯から力を抜き、痛め付けられた箇所に顔を顰めながら、何とか立ち上がる。
 荷物は昨日の内に用意してあった。何の気紛れか知らないけど、何にしてここ・ ・から出られる。例え譲と一緒でも、彼のいる空間に還る事が出来るのだ。
 その事実で自分を勇気付け、ノロノロと着替え始めたのだった。
 それから十分程で、二人はリムジンの中にいた。
 譲が眠ってしまったのを確認すると、そっと袖を巻くって自分の腕を撫でてみる。
 蒼く変色しているものは、数日間の間に譲に付けられた痣だ。
「……」
 これを彼が見たら、何と言うだろう。
 別に心配して欲しいとは、思わない、これは本心だった。では、何を期待しているのか。
「……」
 こそまで考えると、重いため息を吐いた。
 ガラス越しに、雲一つ無い高い空を見上げる。そこに映ったのはまだ幼い少年の顔で、それは果してどちら・ ・ ・なのか、高耶に判断する術は、無い。正確な地獄″は、多分あの時・ ・ ・から始まった。
「……」
 チラッ、と眠っている譲を見る。
 多分、否、間違い無く、何か知っている。
 これは直感だ。北条は、それを分かっていたからこそ贄″を用意したのだろう。それが、役割であり、存在する事を赦される為の仕事・ ・で、
それを放棄した時、高耶は消えて″いくのだ。

いない人間″

 その恐怖を、一体誰が理解出来ると言うのか。
「……ッ」
 綺麗な綺麗な黒い眼球が、絶望に彩られる。その様は、現実離れを思わせる透明さで、更に高耶を地獄へ引き摺り込んで行くのだ。
 心臓が落下して行く降下感に、淫猥な甘さを味わいながら、そっと眸を綴じる。
 車はもう、緑の杜に近付きつつあった。
 譲が目を覚ました時には、既に周りの景色は一変していた。
 樹々の檻、翠色の、洪水。

騒騒、騒騒

 杜の騒めきは、宇宙船に何改変を伝えようとしている信号で、それは酷く心地良い音琴。
「……」
 高耶の視線は、窓の外から離れない。その様子を、譲はただ黙って見詰めていた。その表情は今まで常に浮かべていた無邪気な悪魔のそれでは無く陰く思い詰めたもので。
 そんな状態に気付く筈の無い高耶の眸には、緑達が支配していたのだった。