8


 デコラティブなオブジェの銅製の門を潜ると、そこはもう、宇宙船の内部だ。
 校舎の方に用事があり、静まり返った校庭に出て意味も無く歩いていた。
 8月の恒星は何故か、この空間には酷く優しく、意図して力を弱めている。彼が不思議に思い首を傾げていた様を思い出し、無意識に表情が緩んでいた。
 儚い、儚い、空気に溶けてしまいそうな彼が、その時初めて自分の手の中に同化してくれたのを思い出す。
 その彼は、今はいない。
 あれから千秋は、不気味な位何時も通りだ。あの時の低温さは一体何なのか、今でも分からない。それが彼に関係しているのは分かっているけど、それでもこれ以上聞き出す事が出来なかったのだ。彼の姿を眸に入れない生活は酷く焦燥感を掻き立てるが、平穏を得られているのも事実で…
 突然帰省してしまった時に感じた焦りや一人消えた彼への憎しみが、今は何も残っていない。まだ2週間程しか、経っていないと言うのに。それは多分、常に彼の向こう側に景色が見えていたからだと思う。
 存在が、あやふや、だった。
 触れていないと、高耶そ れは幻ではないだろか、と、そんな錯覚を覚えていたのだ、彼をいると。だからこうして姿が消えてしまうと、温度さえも消滅して、跡形も無く空気に溶けてしまった、とさえ感じている。それがどんなに現実離れした考えであっても。
 温度を感じられない強い日差しを、目を細めて見上げた。
 その時、だった。
 休み中は、正門の扉は滅多に開く事は無い。生徒数が極端に少ない所為もあり、用事があって敷地内を出る時は、図書館の裏手にある裏門を使うのが常だった。だから、威圧感のあるオブジェが内側に開き始めたのを、以外なき持ちで見ていた。
「!」
 しかし、冷静さは、次の瞬間消滅する。
 徐行しながら入ってくる黒塗りのリムジン。
 薄くスモークされた窓から見えた顔は外を見ていたのか、こちらから見れば正面を向いていた。
 彼、だった。
 間違い、無い。
 どうして?
 何かあったのか?
「……」
 気が付くと、胸の辺りのシャツを握り締めていた。
 その下に蠢く臓器は、心拍を早めている。立ち尽くして車の動きから、目を離せない。
「くッ」
 そのまま来客用の駐車場に消えた黒い鉄の後を追い、たった今までいた校舎の方へ走る。突然襲った、宇宙船こ こで初めて感じる暑さに、額を流れてくる汗を拭った。
 普段なら殆ど埋まっている駐車場には、今は数台しか停まっていない。全体を見渡せる位置まで行くと、向こうからは死角になっている場所からジッと見詰めた。
 まず、運転手が降りて来て、左側の後部座席のドアを開く。
 さっき見た時は、彼のいた位置は反対側だった。思った通り降りてきたのは、彼や自分と同じ年代の少年で、遠目から栗色の髪が日の光に透けているのが見える。
 彼より少し、背は低いが、不思議と存在感のある少年だ。
 長時間のドライヴだったらしく少年が伸びをしている反対側では、運転手が右側のドアを開けている。
 彼が、乗っていた、確かに。
 スッ、とドアの下に足が現れ、その姿が目に飛び込んで来た。横の少年と対照的な黒い髪、俯いている白い、透けるような頬、足元から伸びる影のコントラストまで、幻想的だった。それは眩暈がする程で、何故か一気に冷水を浴びた様に心の中まで冷えていくのが分かった。
「……」
 彼に対するこの気持ちは、何処に分類するものなのか―――――分からなかった。
 こんなにも混乱と憔悴を与える彼に、この時言いようの無い憎しみを感じる。その憎悪とも言える視線の先には、見知らぬ少年に制服の白い開襟シャツを着た腕掴まれている彼の姿が、ある。
 表情まで見えないが、彼の戸惑いが気配で伝わった。
 別に、何をしようとは思わない。彼が休み半場で戻ってきた理由も、不思議な程気にならなかった。そのまま踵を返した時、耳に飛び込んで来た高耶″と呼んだ声にも足を止める事無く、寮へ続く路に向かって歩いていったのだった。







「高耶?」
 名前を呼ばれて我に返り、視線を感じていた方向から顔を譲の方に戻す。
「何?何かあったのか?」
 怪訝そうな顔をしている譲に、無理矢理笑顔を作って誤魔化した。譲の方も別に興味を感じなかったのか、ふぅん、と言って運転手から鞄を受け取ると、顎でしゃくる。
「こんな所にいても仕様が無いよ、早く行こうぜ、案内してくれよ」
 一礼して運転手は車に再び乗り込むと、逃げるように宇宙船を後にする。後に残されたのは、所在無く駐車場に立ち尽くす高耶とキョロキョロ辺りを見回す譲だけだった。
「高耶」
「ぁ……っ」
 いきなり腕を強く引かれてその場に躓きそうになったが、何とか足で躯を支える。それでも腕はまだ掴まれたままで、指が食い込んでいるのか痛みを覚えた。
「早く、何ボケッ、としてるんだよ」
「ぁ、あぁ、うん」
 無理な要求でも、北条からのそれを学園側が断るとは思えない。譲の急な申し出の話は通っているのだろうと判断して、そう大きくない鞄を持ち上げると、寮に続く小道に譲を促した。
 並んで樹々の間を歩いて行く。
 飴色の煉瓦、図書館が見えてくると、視界の端に薄紫が広がっていた。
 この光景を見る度に、虚無感に襲われる。美しい美しい、藤の華。甘い香りが、まるで麻薬だ。
「……」
 何時の間にか横を歩いていた譲の足が、止まっていた。
「譲?」
 高耶の問い掛けが聞こえていないのか、視線は薄紫の海に捕われたままだ。ここには余りいたくないのを知っているかの様に、譲が動く様子は無い
「……ゆず、る……?」
「ねぇ」
 自分よりは多少だけど低い、でもしっかしした背中に声を掛けると、そのままの姿勢で声が返ってきた。
「綺麗、だね……何か、高耶に似てるよ……ここ・ ・……」
「!」
 息を、呑む。
「どうして、夏なのに咲いてるんだ?変だよな……」
 そう、藤棚は春と同じでは無いが、まだ無数の華を浮かび上がらせていた。
 この状況が異常なのは分かっている、誰よりも。
「……」
 なす術も無く立ち尽くしていると、譲が振り返った。その顔を見て、ヒッ、と息を引き込みそうになる。
 笑顔、だ。
 優しい、柔らかい、それ。
「……ぁ……」
 怖かった、怖くて怖くて、小田原で何をされてもこんな恐怖を感じた事は無い。
 譲の後ろから流れ出してくる様な、薄紫。気を失わなかったのが、不思議な位で。
「高耶、顔色悪いよ」
 日に焼けた健康的な腕が、伸びてくる。
 その底の無い感覚に、高耶は今度こそ意識を手放したのだった。