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 彼が倒れた事は、瞬時に伝わって来た。
寮に残っているのがほんの数人で、その中に寮長である自分がいるのだから、真っ先に責任者の教師から連絡が来るのは至極当然だった。
 倒れた、と言う事実は意外な程スンナリ入ってくる。恐らく、何か・ ・に触れてしまったのだろう。
 ゆっくり、ゆっくりと、廊下を歩き、反対側に位置する彼の部屋の前に立つ。
 コン コン
「はい」
 返って来たのは、知らない声。あの、一緒に車から降りた少年、瞬時に判断した。静かにノブを回しドアを開けると、壁際にあるベッドの上で眠る彼の姿を見止める。
「……」
 ジッ、と白い顔に見入った。
 一歩部屋に入っただけで、周りの温度が2℃下がったのが分かる。
「誰ですか?」
 声のした方にゆっくり向き直る。窓枠に寄り掛かった少年が、興味深そうにジッと見詰めていた。
 その目は子供が何を観察している時のそれと似ていて、取り合えず作り笑いを浮かべる。
「寮長の直江です……君は?」
「へぇ、寮長さんが残ってたんだ」
 質問に答えずに、少年の笑顔が深まる。だから、
「仰木君の具合は?」
 こちらもそのまま話を進めた。
 質問に無視した事を咎めもせず、ただ受け流した事に相手の興味が更に大きくなったのが分かった。
 少年の笑顔が深まる。
「おれ、今日から夏休みの間この寮に滞在する、成田って言うんだけど……高耶は多分、ただの貧血だと思うから平気だよ」
「滞在?」
 貧血、よりもその言葉に引っ掛かりを感じる。
「そう、日本の寮生活を体験したい、って言ったら北条さんが頼んでくれたんだよ」
「……そう…」
 それで、話しが通じた。
 この少年は北条″の客で、だから彼を伴って戻ってきたのだ。
 日本、と言うからには海外で生活していて、休みを利用して帰国したのだろう。北条の頼みを、この学園が断れるとは思えない。そこまで把握すると、視線を彼に戻した。
「……」
 蒼さえ感じさせる、白い皮膚の下で、彼は何を思うのか。成田、と名乗った少年も口を噤み眠る彼を見下ろしている。
「直江」
 聞き覚えのあり過ぎる声に驚き振り返ると、千秋がドアに寄り掛かり腕を前で組んで立っていた。
「ドア、開けっ放しだったぜ……で?何でコイツがここにいるんだ?」
 高耶を見据える眸は、温度が無い。底まで冷えた眼光で、彼を捉えていた。
 確かに一学期の間、千秋と彼との間には親しい、さえ言っていい関係が敷かれていた筈だ。なのにこの、数日前からの千秋の変化は何だ?
 期待するな、そう言った。こちら側、味方″になるとは限らない、確かにハッキリ言い放ったのを確かに聞いた。
 半目になって自分に視線を移した千秋を、感情を綺麗に隠して見返す。
「……」
 一瞬前の戸惑いが、嘘のように消えていった。
 二年と少しの間、親友とさえ思えた男。
 千秋の自分に対する素直では無い優しさは本物だった、それはスンナリと受け入れられる。しかし、千秋には千秋の事情と複雑な背後関係があるのだ。それより何より、初めから彼事を%G″として見ていた事実を、この時唐突に理解してしまった。
「千秋……」
「で?成田」
 何と言っていいのか分からないオレを一瞥すると、窓際に立っている成田に声を掛ける。
「よぉ、千秋」
 納得したように頷く成田に、俺の混乱は増していく。
 この二人はお互いに知っているのか?そこにある彼の存在は、何を意味しているのか?
「知ってるのか……?」
 やっとの思いで搾り出した声に、千秋は口元を引き上げて嘲笑う。
「お前、本当に何も知らないんだな」
「だから訊いてるんだ」
 苛立つ気持ちが、押さえられない。声が大きくなっていくのが分かった。
「千秋、案内してくれよ」
 唐突に成田が口を挟むと、千秋が顎で付いて来る様しゃくった。
 パタン
 静かな音と供に、静寂が落ちた。
 穏やかな寝顔を、ジッと見入る。
「……」
 彼、だ。今自分の目の前にいのは、間違い無く彼だった。こうして手の届く距離にいると、離れていた時何故あんなに冷静でいられたのか分からなかった。感情が、高ぶってくる。だから自然に手が伸びるのを、止めようとは思わなかった。
「……ぅあ……はぅ、くぅ……っ」
 息の詰まる苦しさに、黒い、これ以上無い美しい眼球が姿を見せていく。
 酷く苦しいのか、彼の覚醒は早かった。
「!」
 苦しさで細めていた眸が、驚愕に大きく見開かれる。
「……りょ…くっ」
 弱々しい力で、首を締め上げている俺の手に縋りつく。
 白く細い、このまま絞め続けたら、簡単に縊れてしまいそうな首だった。
 多分、俺の顔には何の表情も浮んでいないだろう。驚愕していたのは、しかし数瞬だった。諦めた、でも何処か幸せそうに眸を綴じる。苦しみの中に、確かに恍惚とした表情を浮かべて。そこで初めて、ハッとなった。
「ゴホッ……ゴホ…ッ……クッ…ハァ、ハァ…」
 背中を丸めて咳き込む彼を、呆然と見下ろす。
「……」
 殺したかったのか、それとも、幸せにしてあげたかったのか。それは自分でも分からなかった。
「……寮長……」
 潤んだ眸で、彼は薄く微笑んだ。
「帰って……来たんですね……」
「はい」
 夏掛けは肌蹴て、ベッドの隅に押しやられている。ゆっくり手を伸ばし、長袖の開襟シャツのボタンを外していく。
「寮長」
 彼の眸が、哀しい色を浮かべた。その訳は、最後まで外さなくても分かってしまった。
 痣
 腹や腕に、無数に散らばる蒼く変色した、痣たち。これは性交の際に付けられるものでは無く、純粋な暴力に拠るそれ、だった。
「……」
「寮長……」
 黙って彼の躯を見詰める自分をどう思ったのか、彼がまた俺を呼ぶ。
 ピシッ
 鋭い音、次の瞬間には、彼の白い頬が赫く染まった。返した手で、逆の頬を殴り付ける。殆ど加減無しで殴った勢いで、彼の細い躯が壁に打ち付けられた。
「……りょ……」
 ノロノロと上げた彼の顔を見ると、鼻と口から血を流している。それを見て、何かが千切れた気がした。
 乱暴に制服のズボンを下着ごと引き下げると、僅かに変化を見せているペニスを握り締めた。
「あぅ……っ!」
 痛みと襲撃に、彼の躯が反り返る。そのラインの美しさに、もう一度血に塗れた頬を張った。
「ク…ッ」
 今度は反対側に倒れ込み、ベッドから床に転げ落ちる。その表紙に彼のペニスは弾け、床を白い精液で汚していた。
「綺麗にしなさい」
 冷たい声で言い捨てると、ノロノロと顔を上げて俺を見る。
 そっと眸を綴じると、長い睫の陰が差し、そのまま床に手を付いた彼は、液体と同じ白いリノリウムの床を舐め始めた。
 ピチャピチャ、濡れた音が静寂を支配していく空間で、存在するのは彼の白い背中だけで。それは、酷く不思議な光景で。
 俺は耐え切れずに、黙って静かに部屋を出たのだった。
 ドアに手を掛けた瞬間背中に視線を感じたけど、振り返らない。振り返れば、自分の行動に自信が無かった。だから、一人床と性交してる彼を置いて一人外の世界に開放されたのだった。
 何故、暴行を加えなければならないのか、その理由の一旦は彼自身がそれ・ ・を望んでいるのが分かるから。
確認″しているのだ、と漠然と思う。痛みに拠って、自分の中の何かを確かめているのだ、彼は。
 疵を作り、痣を増やし、それの出来る過程は彼に一定の安定を与える。そんなやり方・ ・ ・を教えてしまったのは俺だ。
北条″の中に入り込んでいる彼が脳裏に組み込まれた瞬間、俺の中に衝動が生まれてしまった、だからもう、引き返せない。だが、そんな彼の中身を満たせるのは自分だけだ。それは自己弁護でも思い違いでも無く漠然とだが、確信している。
 そして、今日……
 多分、あの痣だ。
 彼の躯中に散っていた、痣、俺以外の者の付けた。
 それを消してしまいたかった。それが彼に手を挙げた理由だと、思いたかった。
 廊下を出て何か本でも読もうと図書館に向かう途中、少し先にある小道の脇に、薄紫の渦が見える。フラフラ、吸い寄せられる様に、近付いて行く。
 薄紫の中に、2人の男の姿が見えた。千秋と、成田、と言う男だった。
 以前から知り合いで、しかも彼、北条の関係者でもある少年。そして多分、あの無数の痣を付けた。
 何か話しているのは分かるけれど、内容までは聞こえない。
 当然気になった。
 千秋からの警告を聞いてから、話す機会が今まで無かった。別に避けている訳では無かった……否、避けていたのだろう、カフェテリアでも顔を合わせる事が無かったのだ。
 一歩進むと、足の下で石砂利が音を立てる。小さいものな筈なのに、目の前の二人は同時に振り返った。
「あれ?高耶は?」
 笑みを浮かべながら親し気に言うのは、成田だ。
「まだ寝ている」
 感情を隠すのは、幼い頃から慣れていた。
「ふぅん」
 肩を竦めて、成田は千秋に向き直る。
 千秋は成田を一瞥すると、ゆっくり俺を見た。20m程離れていた距離を、ゆっくり縮めていくのは、俺の方だった。
「千秋」
 低い声に、千秋の眉が微かに上がる。
「……何か訊きたい事がある、って顔だな」
「あぁ……それで、俺が訊けば話してくれるのか?」
「さぁな、内容による」
 飽くまでも穏やかに話すオレ達を、成田は面白そうに見ている。
 少しの間、沈黙が落ちた。
「………彼……」
 先に聞こえてきたのは、自分の声だった。
「彼、の……」
 何を訊きたいのか、良く分からない。
 そこまで言うと口を噤んだ俺に、千秋はため息を吐いた。その表情はこの2年数ヶ月の間慣れ親しんだ、皮肉っぽい、それでいて何処か暖かい色を含んだもので。
「あーあー、もう、仕様がねぇなぁ」
「千秋」
 千秋の微妙な態度の変化を感じ取ったのか、成田が制する様に口を挟む。
「直江、って言ったっけ?アンタ」
 冷たい、声だった。今まで見せていた表面だけでも保っていた温和さが、綺麗に消えている。
「アンタ何企んでんの?仰木高耶″の何探ってんだよ」
「オイ」
 千秋が呆れた様に静止するが、それは成田を余計煽っただけだった。
「千秋は黙ってろよ、高耶あ れはおれの玩具なんだよ、アンタが横からチョッカイ出すのってスゲェ迷惑」
「……」
 成田の言い草に、暗い怒りが込み上げてくる。
「何か不満そーじゃん、あのね、北条はおれに高耶あ れを差し出したんだよ、おれが退屈しない様に」
「……どう言う、事だ……?」
 声が、これ以上無い程低くなった。
「さぁね」
「直江」
 俺が何か言い出す前に、千秋が一歩前に出た。
「何度も言ったろ、アイツを切れ、って……そうだな、お前が思ってんのは何でオレが成田を知ってるか、って事だろ?別に隠すモンでもねぇから教えてやるよ、中坊ん時クラブでよく会ったんだよ、それからの付き合いだ」
 思っていた以上に長い付き合いを、意外に思う。
「で、俺の家が造船業″で成田があの製薬のナリタ″だって知って、まぁ利害の一致つーか家庭環境が似てるって事でたまにつるんでたんだよ」
 お互い親が企業のトップで、そんなバックグラウンドの似ている二人が気安い関係になるのは、至極自然だ。二人が顔見知りな訳はハッキリしたが、そんな事よりも訊きたい事が、別にある。だが言いたい事は言い切ったからなのか、これ以上何も言う事は無いからなのか、千秋と成田はお互いに目配せすると、藤棚から小道を抜けて行ってしまった。
「……」
 その背中を見送りながら、何か、一番大切で重要な事実が直ぐ側に隠されている事を肌で感じ、空間の温度の無さの寒気に、背筋を振るわせたのだった。
 頭上に広がる薄紫を見上げた。
 初めてこれを見た時込み上げてきた吐き気は、何だったのか。だが、そんな恐怖にも似た不快感を味わったのは、その時一度切りだ。
 彼を伴って初めて藤棚こ こに来たのは、4月の終わり、まだあれから三ヶ月と少ししか経っていない。
 彼の顔は、間違い無く強張った。あの時は気所為と思い記憶の隅に隠していたが、今はあれが彼の追い詰められたものの現れだと理解している。それでも藤棚こ こを避けずに、何故か何度も足を運んでいる彼の姿を見ている。
「……」
 彼の闇に触れた、気がした。
 踵を返し、寮に戻る。
 飴色の建築物の中の彼は、今何を思っているのか。螺旋階段を3階まで上がり、彼の部屋には向かわず逃げる様にドアの向こうに滑り込む。
「……」
 息が止まる。
「寮、長……」
 どうしてここに彼がいるのか。つい先程彼の部屋で何度もその白い頬を殴り付け、痛みを耐える顔を目の当たりにしたのに。当然の如く、彼の頬は赫く腫れて、口端には切れた痕が痛々しく残っている。
「……ゴメ、ン…ゴメン、なさい……ゴメンなさ……」
「……」
 頬を伝う液体の透明度の高さに、呼吸も忘れた。
 何度も何度もゴメンなさい″と、壊れた様に繰り返す。彼は静かに、そこで泣いていた。
「……ゴメ……ッ」
 暫く放心していたが、気付いた時には顎を掴み、噛み付く様に接吻けていた。
「…ぅん……んぅ……」
 クゥ、と苦しそうに息を漏らす彼に、初めて・ ・純粋に欲情した。だから、彼はそれを拒む事は無かったのだった。