1946年6月7日




 生きるも地獄、死ぬも地獄―――
 そう、己に告げたのは誰であったか。
 その男は酷く優しげな笑みを浮かべ、己にそう告げたのである。そして翌日、男は自害して果てた。
 何故今、そんな事を思い出すのかなど分からない。正に今が、そんな状況であるからなのか。
「……」
 そこまで考えると、嗤いが込み上げてくる。そんな気持ちのまま、少年は口元を歪めてクツクツ嗤った。その表情は老練していて、まるで幼い少年の顔形ににつかわしいものではない。
「くくく……」
 嗤いながら、破れかけたポケットから取り出したのは金だ。かなり汚れている。だが、金は金だ。微々たるものだが、今日を凌ぐには十分である。
 上野に広がる闇市には、一体何処からと思う程の人間が集まっていた。皆一様に疲れた眸をし、その表情には翳りを落としている。
 それでも、それでも生きている、生きて人類史上最大級の戦争を生き抜いたのだ。
 何の為に生きている?
 そんなもの決まっている、生きる為に、生きているのだ。人間とは、眩しい程に浅ましくそして、美しい。
「それに比べ……」
 子供特有の声に滲む、寒々しい響きに、少年は己を嘲笑う。『以前の己』であれば、こんな真似を決してしかなったであろう。金を盗むなど、何と浅ましい真似を、と。
「ふん」
 だが『山口』は死んだ。それと同時に、己は確実に、何か大事なものを失ったのだ。それを証拠に、掠め取った金に満足感しかない。
「……」
 掌の金をジッと見詰める眸は昏い。この金は『力』で掠め取ったものだ。闇市の強欲な露店主の、この日の稼ぎを全て奪ってやった。今頃はきっと、顔を青くしている事だろう。
 それを思うを、自然と嗤いが込み上げてくる。
「くくく……」
 それと同時に、彼を想った。毒ガスの中でも死なず生き残った主を。
 彼は今の己を見たら、一体どんな顔をするだろう。
「……」
 その想像に、少年の顔から嗤みが引いていった。残ったのは、冷え冷えとした、凍った眸で。
 不思議であった。
 これまでの長い時間、こんな風に彼を想う事などなかった。
 彼は敬愛すべき主であり、守るべき存在だ。それ以外でも以下でもない。だから『山口』は死んだのだ、彼を守る為に。
 そこに何の疑問も無かった、今も無い。それなのに、
「……」
 初めて生まれてしまった、心の歪みに少年は戸惑って、否、怯えていた。
 彼、景虎に対し、今まで感じ得なかった感情が生まれてしまったからだ。それは決して、持つべきものではなかった。
 これはシミだ、汚いシミである。
 真っ白い、彼の軍服のような美しい白に、一滴の黒が落ちる。そして一度落ちたシミは、決して消えない、後は広がるのみで。
「……」
 グッと掌に金を握り込んだ所に、背後から声が聞こえてきた。
「尚紀?」
「……ああ」
 振り返ると、そこにいたのは仲間だ。先の大戦で親を失い、孤児となった仲間の少女であった。
「何? 金?」
「ああ、ほら」
 見せてやると、まだ六歳にしかならない少女の眸が、狡賢く光る。
「すごいね、ねえ、あたし芋が食いたい、蒸かした甘いやつ」
 六歳の子供の目に、あからさまな媚びが浮かぶ。既に『女』を使う事に、何ら疑問も無い、ここはそう言う世界だ。
「ねえ」
「……」
 それには答えず、尚紀、と呼ばれた少年は立ち上がった。そしてすたすた歩き始める尚紀の後を、少女は慌てて付いて来る。
「ねえねえ」
 纏わり付いてくる少女を、尚紀は鬱陶しそうに見た。
「何だよ」
「買ってよ、芋、いいじゃない」
「……」
 媚びた笑みを浮かべているが、少女の眸は必死であった。
 食う事、即ち生きる事。食えねば死ぬのだ、何とシンプルな世界であろうか。
 そこに尚紀は、生まれ生きた時代を思い起こす。血に塗られた戦国はだが酷くシンプルで、清々しささえあった事を。
「……」
「尚紀ってば!」
 尚紀に無視され、少女は頬を膨らませ袖を引いた。
「聞いてるの?」
「……」
 やっと尚紀から視線を向けられ、少女は嬉しそうに微笑む。
 一歳か二歳か、年上のこの少年は、孤児の中でも一目置かれていた。
 優しげな容姿と何処か品のある雰囲気は、とても孤児をは思わせないもので。だがそんなものは、生き馬の目を抜くこの世界では、何の意味も無いものだ。しかし少年は、決してそれだけではなかった。
 まだ幼い筈の尚紀だが、他の子供達のように大人に食いものにされる事なく、逆に上手く利用し、最終的にはこちらに利益を引き寄せたのだ。これには周りの孤児達は、目を輝かせた。
 子供達が盗んだものを、闇で大人に売る『商売』は、尚紀が表れてから一気に状況が変わった。
 足元を見られ買い叩かれ、タダ同然で、まるで奪われるような『商売』が、今では対等に、否、それ以上に渡り合うようになっていた。
 以来尚紀の周りには、孤児達が取り巻きよろしく取り囲むようになっているのだ。そんな中、珍しく一人きりであった尚紀を、少女は独占出来ると内心心躍らせていた。
「芋、食べようよ尚紀」
「……芋か」
「そうだよお、あたしたちだけでさあ」
「……」
 眸に浮かぶ媚びに『女』を見止め、尚紀は小さく嗤った。
「そうだな」
 そして答えた尚紀の言葉に、少女は分かり易く狂喜する。
「早く早く!」
 気が変わらぬ内に、とばかりに腕を引っ張ると、少女は尚紀を連れ、闇市の中に消えて行った。





 蒸かした熱々の芋は御馳走だ。小さな手に余る大き過ぎる芋を、少女は夢中で貪っている。それを横目で眺めながら、尚紀は溜息を吐いた。
「……」
「尚紀?」
 そんな少年に気付き、少女は不不思議そうに首を傾げる。その仕草は年相応で、尚紀は無意識に薄く微笑んだ。すると、少女は泣きそうに顔を顰めた。
「……」
「なんだ?」
「……尚紀……なんだかとうちゃんみたい、そんな顔して」
「え」
「そんな風に、とうちゃんもよく笑ってたから」
 言いながら更に泣きそうになった少女は、むきになって芋に食らい付く。
「……」
 確かに尚紀にとってこの少女など、子供の子供、それ以下の幼い存在でしかない。400年近く生きてきた『少年』の表情には、それ相応の年輪が刻まれていたのであろう。
「そうか……」
「うん……とうちゃん、あたしの誕生日にも、芋、これと同じ大きくて甘いの買ってくれたんだ」
「……」
「それとね、同じ味がするよ……尚紀?」
「はは……誕生日か」
「うん、尚紀の誕生日はいつ?」
「……」
 その問いに、少年は少し考え、小さく呟いた。
「六月七日」
「……え?」
 少し考えた少女は、その答えに大きく目を見開く。
「それって今日だよね?」
「そうだな」
「そっかあ」
 途端に嬉しそうに笑う少女は、まだ潤む眸で芋に齧り付いた。
「美味しいね……尚紀もあたしと一緒だね」
「……そうだな」







「……」
「何が可笑しい」
「景虎様?」
 不機嫌な声に顔を上げれば、そこにはあの少女ではなく、冷えた黒い眸で見下ろすバーテンが立っていた。
「そうか……」
 ここは闇市の外れではなく、レガーロであった。一瞬思考が、懐かしい記憶に飛んでいたのだ。それもこれも今日が、
「七日か」
「そうか、ってなんだよ。今日は七日だが、何かあるのか? おまえ笑ってたぞ?」
 不思議そうな顔でそう言われ男、直江は顔を上げバーテンを真っ直ぐ見据える。
「今日は六月七日で……俺の、笠原尚紀の誕生日なんですよ」
「……へ、へえ」
 直江の言葉にバーテンは、一瞬瞠目し、そして少し考え込んだ。
「景虎様?」
「……なあ直江」
「はい」
「おまえ、欲しいもんでもあんのか?」
「え」
「誕生日なんて、初めて聞いたぞ」
「それはそうでしょう、初めて言いましたから」
「おまえな……」
 呆れた顔で溜息を吐かれ、直江は不思議な気持ちでバーテンを見詰めた。そして、
「芋を」
「は?」
「芋が食いたいです」
「いもって……芋か?」
「はい」
 直江の意図が分からず、バーテンは困った顔になる。だが直江は穏やかな笑みを浮かべているだけで。
「誕生日に……芋が欲しい、って事だな?」
「はい、甘くて大きい、蒸かした芋を」
「……まあいいけど……人それそれだしな……よし、ちょっと待ってろ」
 奥に引っ込んだバーテンを見送ると、男は溜息を吐いた。
 今は『尚紀』ではない。笠原、と言う姓を持つ、身元の確りした医学生だ。だがこんな日は、不思議とあの上野の闇市で駆け回っていた頃が懐かしくなる。
 その内バーテンが、芋を持って戻ってきた。
「これ今から蒸かしてやるから待ってろ」
「……」
 バーテンは、珍しく顔中で笑っている。耀く笑みにに目を奪われ、男は息を飲んだ。
「直江?」
「……いや、嬉しいです」
「へへ、待ってろ、この芋大きいから、少し時間かかるぞ?」
「はい」
 そんな男に笑顔で頷くと、再び消バーテンは、奥へ引っ込んでいった。そして暫くし、ほかほかに蒸かされた芋をカウンターに置いたのだ。
「出来たぞ」
「……」
「さあ食えよ、おまえの誕生日だもんな」
「では、景虎様も一緒に」
 店は閉店しており、店内には二人きりだ。だからなのか、バーテンも遠慮せず、たった今蒸かしてきた芋に手を伸ばした。
「ふは……あふ……うん、甘くて美味い」
「ええ」
 熱々の芋を子供のように頬張るバーテンが、何故かあの少女を重なった。そして同時に思い出すのだ。
「……」

 あれから一年も経たぬある日、闇市を走る台車に跳ねられ死んでしまった事を―――
 
「……」
「直江?」
「いえ……美味しいです、ありがとうございます景虎様」
 張り付けた笑顔を浮かべる男にバーテンは、満足そうに頷いた。その笑顔にまた、

「……」
 
 シミが……黒いシミが広がっていくのを感じながら、男は黙々と芋を喰らい続けたのだった。




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