出逢いの日



「来たぜ」

 声は淡々としたものだ。それは表情も同じ事で、そこに感情は窺えない。

「あいつ」

 続く言葉に、男はもっともらしく頷いた。
「ふむ、まあそうでしょうなあ」
「おまえが教えたんだろう」
 唇を尖らせ上目遣いで睨む少年の顔に、漸く感情の色が浮かぶ。そえれを見て男は、不思議と安堵していた。だが当然、そんなものは顔に出す事はない。
「ええ、何か問題でも?」
「……ち」
 シレッと答えてみると、忌々しそうに舌打ちし少年はメロンソーダを掻き混ぜた。緑の着色料と白いシャーベットが混ざり、グラスの中は薄緑に変わっていく。
「だったら先に言えよ」
 吐き捨てる少年はもはや、苛立ちを隠せていない。そんな様子が面白く、男は赫い唇を歪めた。
「何かありましたか」
 問い、ではなく確認である。
 薄嗤いで告げられ少年の目が、一瞬殺気を帯びた。だが直ぐに、諦めたように溜息を吐いた。
「……呼び止めちまったんだよ」
 そう、そんなつもりは毛頭無かった筈なのだが、気が付けば声を掛けてしまっていたのだ。
 完全なる不覚に、少年は苛立ち紛れにメロンソーダを音を立てて啜った。
 顔立ち自体は綺麗とも言えるのだが、どうにも目付きが宜しくない。なのでそんな顔をすると、増々物騒な雰囲気になってしまう。そんな少年の言葉が意外だったのか、男は今度は声を出して嗤ってしまった。
「くくく……なるほど、それで不機嫌だったのだな」
「……うるせー」
 鼻を鳴らす少年の機嫌など、男にとってはどうでもいいものだ。それよりも、この先に展開が気にかかった。無論、心配などは欠片もしてはいないのだが。
「それで、これからどうするつもりですか」
「……見付かっちまったもんはしょうがねえだろうが。あいつがこのまま引き下がる訳ねえし」
「確かに、あの犬はしつこいですからねえ」
「……」
 歌うような調子の男に、少年は睨む事しか出来ないでいた。
 本当なら『力』でも何でも使ってツブしてやればいいのだが、流石に場所柄は弁えている。
 ここは松本市内のカフェであり、当然他人の目に囲まれているのだ。面倒を起こせば、怖いは妹である。少年にとって、唯一とも言える大切な存在は、同時に頭が上がらない相手でもあるのだ。
「あいつがしつこいのは今更だ。精々逃げ回らせてもうらう」
 静かに言う少年に、男は疑問を口にする。
「本当に『覚えていない』と」
「ああ」
「本気ですか」
 遠慮の無い男の問いに、少年の表情が微かに動いた。それは怒りでも苛立ちでもなく……何処か虚無を噛んだ目で薄く嗤う。
「あいつも……それがいいんだよ」
「……」
「オレは何も……あいつを何も覚えていない……オレはただの『仰木高耶』……それでいい」
 酷く疲れた笑みであった。
「その方が……」
 小さな、呟きは独白のようで。
 少年自身が、まるで己に言い聞かせている……男の耳にはそう聞こえた。
「しかし、そのまま、と言う訳にはいかんだろう」
 敏い男だ、少年の気持ちが『客観的』には把握している。あの頃を知っている男にとって、少年の言葉の意味、重さは嫌になる程理解出来た。
「貴殿がその調子のままでは、上杉は潰れるぞ」
 だからと言って、少年の感情を慮ったりする事は無い。
「……」
 事実をただ告げられ、少年は皮肉げに口を歪めた。
「おまえには、その方が都合いいだろ? 信玄の腰ぎんちゃくが」
 蔑む物言いにも、男は薄く嗤うだけだ。
「確かに都合はいい……だが詰まらんな」
「けッ」
「お前らのいざこざは、これまで私のいい暇つぶしとなっていたからな」
「てめぇ……」
 ギリッ、と歯を噛み睨む少年に肩を竦めると、男は腰を上げた。
「では私はもう行く……子供の相手をしている程暇ではないのでな。ああ、ここは私の奢りだ、子供に払わせる訳にはいかんしな」
 それだけ言うとレシートを手に取り、少年の反論も聞かず店から出て行ってしまう。
「くそ……今暇潰し、とか言ったくせによお」
 ぶつぶつ文句を言いつつも、少年の眸は暗い。
「あいつ……」
 驚いていた……
 己が覚えてないと知ると、薄茶の眸は絶望に染まった。だがその奥底の安堵を、少年は見逃さなかった。
「オレが」
 オレが追い詰めた……そうして、全てをブチ壊したのだ。
「オレが……」
 三十年前の戦いは、あれは地獄だった……まだ高校生である少年は『三十年前』を思う。
 そしてあいつは、壊れてしまった……オレが、壊したのだ……
「……」
 三十年振りに、あの眸を目の当たりにした。その瞬間、少年は『内部』が沸騰した錯覚に捕らわれたのだ。
 あの眸はまるで麻薬だ。一度知れば、もう決して深層の内膜から剥がれはしない。
「くそッ」
 これは逃げだ、分かっている。それでも少年にとって、それは必要であった。
「くそ……」
 もう少し、潜っているつもりであった。だがもう遅い、見付かってしまった、あの男に。
「……」
 そうなれば、またあの地獄が待っているのだ……甘い甘い地獄が。
「……ふ……」
 小さく息を吐き少年は、温くなってしまったメロンソーダのストローを咥えた。そして一口飲むと、妙な味に顔を顰める。
「……」
 俯きテーブルに肘を着き、遠い過去に想いを馳せた。
「あいつ……いい男になりやがったな……」
『前』を思い、そして先日この地にやって来た男の姿を頭に浮かべる。随分と、様変わりしたものだ。
「く……」
 小さく嗤うと、少年は立ち上がった。
 これからの展開など、想像も出来ない。それでも、再び針は時間を刻み始めてしまった。それを止める事など出来ない。
「直江……直江、信綱……」
 それは、数え切れない程口にした名だ。その名を口にした少年の眸に、翳りが覆っていく。
 そっと眸を閉じると、少年は店を後にした……動き出してしまった時間に、身を震わせながら……後戻り出来ない、例え地獄が待っていようと。

 甘美な地獄は、こうして再び時を刻み始めたのであった―――




      

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