俺の好きな監督






 景気がいいのか悪いのか、世間の批判も色々あるが、今日も日本のあちこちで土木作業が行われている。この現場も、そんなものの内の1つである。
 朝7時、まだ足場を組んだだけの現場を、歩き回っている影があった。
「……よし……ん?……あー……」
 ぶつぶつと呟きながら、一つ1つチェックして回っている。
「これは……よし、っと」
 そこで背後から声が上がった。
「監督ー、おはようございまーす」
 監督、と呼ばれた青年は振り返ると、そこに部下を見付けてにっこり笑う。
「ああ、おはよ、卯太郎早いな」
「早くないですよぉ、監督こそ早いですねえ」
「そうか?」
「そうですよぉ」
 この世界に入ってまだ一年目の卯太郎は、くりくりした目で現場監督を見上げにこにこしている。そんな顔をされると、無意識に手が出てしまうと言うものだ。
 なでなで
 頭を撫でられ卯太郎は、気持ち良さそうに目を細めた。
「もう慣れたか?」
「はい!いや、わしはまだまだ足手まといだけど」
「そんな事なないぞ?でもまあ、その内慣れる」
「はいッ」
「?」
 何が嬉しいのか、卯太郎の目は妙にキラキラ輝いている。監督は首を傾げつつ、チェックの続きを再開した。卯太郎も下っ端らしく、工具の準備などを始めている。
 そうこういしていると、一気に人が集まり始めた。7時半を過ぎた頃から、一気に皆が現場にやってくるのだ。そして仕事を始める8時5分前、監督は皆に向かって声を上げた。
「よーし、皆集まれー」
 監督の声に、ぅいーっす、と野太い声が立ちムサい男達がわらわらと集まり始める。男達は監督を囲むように立ち、言葉を待っていた。そんな男達の目はやはり、何となくキラキラしている感がある、不思議な事に。
「おはよう」
『っよーっす』
「今日の行程は頭に入ってるな?」
『ぅいっす』
「いいか?工期に間に合わせるのは大事だ。だがな、だからと言って手抜きは赦さなねぇからな」
『ぅいっす』
「あと、くれぐれも怪我には注意しろ。指一本、簡単に落ちるからな」
『ぅいっす』
「じゃあ今日も……よろしくお願いします」
 監督が頭を下げると、男達は皆一斉に、
『っさーっす』
 と、声を上げ頭を下げるのだった。
 朝の挨拶が終わると、皆それぞれ仕事に取り掛かった。
 この現場はビルとは違い、一軒屋の施工である。一軒屋と言っても、それは豪邸と言っていい規模であった。施工を請け負っているのは工務店の中では規模の大きな会社で、チームとなって動いている。
 チームを率いる若き現場監督は、近くにいた1人に声を掛けた。
「おい兵頭」
「はい」
 工具を手に、兵頭と呼ばれた男は自分よりも年下の監督を振り返った。そしてきょろきょろしている監督を、意味あり気に見詰めている
「あー……直江はどうした?姿が見えないんだけど……?」
 がんばって何気なさを装てる監督に、兵頭は小さく溜息を吐いた。
「……」
そんな兵頭に、他に気が取られている監督は気付いていない。
「……気になるんですか?」
「べッ、べっつに〜!」
 慌てて大声で否定した監督は、次の瞬間更に慌てて声を上げた。
「って違ーうッ!気になんのはあったり前だろうが!現場に来てなきゃいけねぇ奴がいねんだからよおッ」
 何故かムキになる監督に、兵頭は溜息を吐いた。
「……」
「……な、んだよ……」
 監督の目は、ふよふよ泳いでいる。回遊魚にも勝てる勢いだ。
「いえ別に……直江は今日、朝本社に顔を出してから現場に来るそうです」
「え?あ」
 そう言えば、そんな事言っていたような聞いたような。
「あー……うん、分かった、仕事の邪魔して悪かったな」
「いえ」
「?」
「……」
「??」
 話は終わった筈なのに、何故か兵頭は動かない。監督の顔をじーっと見詰めたままだ。それに戸惑ったのは監督である。
 顔?顔に何か付いてるとか?!
 ご飯!?ご飯粒?!
 あわあわ顔に手をやる監督は、顔にご飯が付いていないのを確認しホッとする。では何故じろじろ見てるのだろうか。
「おい……兵頭?」
 監督の戸惑った声が聞こえた……筈は無いのだが、気が付けばわらわらと職人達が集まってきてしまった。と言うかそれ以前、2人の様子をチラチラ窺っていたらしい。そこで監督の様子が変だ!って事で我先に!と集まってきてしまった。
「おい兵頭!何しとるんじゃ!」
「そうですよ兵頭さん、監督いじめちゃいかんです!」
「そうだぞ!お前何監督といちゃいちゃッ」
「監督!こん男に何かされとりませんでしたか?!」
 わらわら
 わらわら
「あのー?」
 目をぱちくりしている監督は、ハッと我に返った。
「いやいやいや!いぢめられるとかねぇから全然!お前らさっさと仕事に戻れー!」
 ビシッ、と指差され職人達は、互いに顔見合わせながら納得いかないように首を傾げている。
「監督」
「あ?」
「本当に何もされとりませんか?」
「ないっての!」
 そもそも何をされると言うのだこの自分が。
「ならいいんだけどさあ、監督、何かされたら大声あげろよ?」
「そうですよぉ、わしも駆けつけますき!」
「そうそう、何たって監督は……痛ッ」
「馬鹿野郎!お前言うなよッ」
「あ、やべ……いえ何でもないんですよ〜監督〜」
「……」
 監督が呆気に取られている間に、職人達はわらわら仕事に散っていってしまった。
「……なんだったんだ……?」
 ぽつり呟いた監督の言葉は、誰の耳にも届く事はなかったのだった。










「おーい!そっち気を付けろよー!」
「はーい!」
 手をメガホンにして監督大声で注意すると、高い足場の上から卯太郎の元気な声が返ってくる。
「元気がいいですねえ」
「へ?」
 突然背後から聞こえた声に、監督は慌てて振り返った。
 ここは工事現場であり、関係者以外立ち入り禁止である。それ以前に、下手に近付いたら危険なのだ。だが、
「あ」
「こんにちは監督さん」
「あ、こんにちは開崎さん」
 現れたのは、施工主であった。
 まだ40そこそこのこの男は、既に相当の財産家である……と言っていたのは監督の上司だ。まあ、財産が無ければ、都内にこんな豪邸を建てる事など出来はしない。土地建物含めて、10億近い金額なのだから。監督から見れば、想像も出来ない世界である。
「様子を見に来てしまいましたが……お邪魔でしたか?」
 にこにこ、音がしそうな笑顔だ。
 誰が見てもイケメンである開崎なのだが、どうも監督は苦手であった。理由など無い、何となく、である。
「……いえ」
 だからこんな風に、笑顔がひくひく引き攣ってしまうのだ。
「それはよかった、監督さんとお話しがしたいと思ってたんですよ」
「はあ……」
 本当は邪魔だ。忙しいこの時期、施工主の相手をしているヒマなどない。だがこの男は無論、この男の父親は会社とアレコレな関係があり、丁重ーに!と監督は直々に指示されていた。社会人は楽ではない。
「じゃあ……案内しますね?」
「ええ、お願いします」
「……」


「おい、また来たぜ?あいつ」
「うん……あ!腰に手回してる!」
「あん男、絶対怪しいです!」
「絶対監督狙ってるぜ……」
「俺らが監督守んねえと!」
「そうだそうだ!」
「よし!わし行ってきます!」
「よし行け!」
 こそこそ
 ひそひそ


「監督ー」
「何だー?」
「ちょっこっちいいですかー?」
「分かった今行く!……あ、開崎さん、すんません」
「勿論です、私の家の為に、皆一生懸命やってくれているのですからね」
 にっこり
「……じゃあそゆことで……」
 助かったぜ!
 内心呼んだ卯太郎と褒めながら監督は、これで逃げられた、と安堵していたのだが……


「監督さん」
「はい?」
「私はこれで失礼しまし」
「ああ、そうですか」
 さっさと帰ってくれー、とは心の中だけで言ってみる。だって社会人なのだから。
「監督さん」
「はい?」
「今日お仕事終わった後、お食事でもいかがでしょう」
「………………………………はい?」
 お食事?
 意味が分かった監督は、あー、と苦い顔で首を捻った。だって行きたくないからだ。
 仕事で疲れてる、予定がある、色々と理由はある。何とか誤魔化して断らねば!
「あの、ですねえ」
 だが敵はさる者。
「今夜はご自宅に真っ直ぐ帰る、とおっしゃっていましたよね?」
「へ?」
 言ったっけ?!
「明日は現場はお休みですし……少し遅くなっても大丈夫ですよね?」
「え、あ」
「今回の私の家について、色々とお訊きしたいのですよ」
 にっこり
「うぐ」
 そう言われてしまえば、断るのが難しい。
 監督は、この仕事に誇りを持っている。信条の中には、施工主に安心して任せてもらえる良い仕事、と言うのがある。それには無論、疑問には何でも答える義務があるのだ。
「ぜひ、監督さん」
「…………じゃあ」
 行きたくはないが、ここは仕方がない。そう監督は内心諦めた。




「高耶さん」




「!」
 諦めた監督の耳に、聞き覚えがあり過ぎる声が飛び込んできたのだからびっくりだ。
「高耶さん、どうも、戻りました」
「直江ッ?!」
 そこに立っていたのは、本社に寄ってきたらしい部下の1人であった。既に作業服を着ている。
「遅れて申し訳ありません……ああ開崎さん、今夜は高耶さんは俺と約束がありましてね。大事な大事な用件なんですよ」
 ギロリ
「……ほう」
 現れた作業服の男は、何故か剣呑な目で施工主を睨んでいる。そんな睨みを受けて、施工主はにやりと笑った。
「そうですか……では仕方がありませんね。ではまたの機会に」
「え?」
 次?!
 あるの?!
「では私は失礼します……高耶さん。ああ、私も高耶さん、とお呼びしてよろしいですか?」
「え?あ?はい?」
 何それ?
 いまいち現状が把握出来ない監督の『はい?』に、開崎はにんまり笑った。
「ありがとうございます。ではまた後日……高耶さん」
 にっこり
「……はーいどーもー……」
 まだ首を傾げている監督を余所に、施工主は颯爽と現場を後にしてしまう。そして残されたのは、
「……」
「……」
 はッ
 先に我に返ったのは、監督の方であった。
「お前!何でッ?!」
「高耶さん」
「おいッ!現場で名前で呼ぶなって言ってんだろッ?!」
 その所為で、あまり関わり合いになりたくない男からの『名前呼び』が決定してしまったのだから。
「おい!」
「こっち、来てください」
「わッ」
 監督の腕を掴むと、男はずんずん進んで行く。そして誰の目も届かない死角へ連れ込んだ。
「おいッ!」
「高耶さん」
「う」
 壁に着いた両腕に、監督の顔は挟まれてしまった。いわゆる壁ドンである。囚われの身となってしまった監督は、不機嫌顔で男を見上げた。
「何だよー」
「あんな男に捕まってるんじゃないですよまったく」
「おい!」
「そうでしょう?……ベタベタ触られて……俺のなのに」
「おいおい!」
 確かにそうだけど!
 いやいやいや!そうじゃなくって!
「高耶さん」
「だから現場で……ぅぐッ」
 唐突にキスをかまされ、監督はびっくりだ。何故ならここは、現場だからだ。
「おい!ここをどこだと……ッ」
「だって」
「だって、じゃねえよデカい男が気持ち悪い」
「気持ち……ッ」 
 キモイ、ですらない。
「オレぁ行くからな!仕事中だ!お前もとっとと現場戻れ!」
「はいはい」
 顔を真っ赤にしてずんずん歩いて行ってしまう恋人の後ろ姿を、ぼんたんを着た男はうっとりと見送った。
 あの人は、俺のものだ。彼は俺を愛してくれている。だからあんな事もこんな事も!赦してくれるのだ。だけど、
「……」
 油断は出来ない。周りは敵だらけだからだ。
 現場のアイドルとなっている事を、監督本人はまーったく!気付いていない。それどころか、今度は施工主まで出てきてしまった。まったく魅力的な恋人を持つと苦労する。
「ふん」
 だが、誰もも渡す気の無い男は、監督に怒鳴られるまでその場で、恰好つけながらぐるぐる回っていたのだった。
 こんな男でいいのか……監督よ……







おわる