1 沸点を知る時



 週明けの就業前の騒めきは、独特の音を持っている。時間的に切羽詰っている訳ではないのに、何処か慌しい空気。そんな誰もが嫌っているだろう『月曜の朝』が、高耶はそれ程嫌いではない。だから、と言う訳でも無いが、月曜の朝は比較的早めに家を出るのが習慣になっていた。冬の朝の空気は冷たくて、それが清浄な錯覚を起こさせるのだ。
 家を出て徒歩約10分の最寄の駅から私鉄で10分、JRに乗り換えて25分、そこからまた歩いて5分程で勤めている会社があった。家を出て自分のデスクに座るまで1時間弱、まぁまぁ普通の環境だろう。
「よ」
「あ、よぉ」
 肩を叩かれ振り返ると、見知った顔が眠さを隠さない表情で立っていた。
「眠ぃ…」
「目の下、隈出来てる…また女の所からか?」
 呆れて言う高耶も、男――千秋修平はまぁな、と全く悪びれない。ふぁ、と大欠伸する男の前に、仕方無く今煎れたばかりのお茶を置いてやった。
「飲めば?ちょっとは目ぇ覚めるし」
 高耶がそう言うと、千秋は隣から自分の椅子をコロコロ転がし勝手に高耶のキュービックに入ってきた。
「おお、いやーほんっと高ちゃんって気が利くよなぁ…嫁に来る?」
「ドアホ」
 大袈裟に喜ぶ千秋の頭を軽く叩くと、高耶は再び自分のお茶を煎れ様と席を立つ。
「高耶?」
 何処行く?と訊かれ給湯室を指差した。
「俺も飲みたいから」
「あー悪ぃな、俺が取っちゃたんだ」
「そ」
 少しも悪い、と思っていない千秋に笑うと、そのままお茶を煎れに給湯室へ向かった。
「あ、仰木さんお早うございます」
「お早う」
 そこには既に、今年は入ったばかりの新人社員、森野沙織が自分用のマグカップにココアを入れていた。ふわ、と広がる甘い香りに、高耶は目を細める。
「仰木さんも飲みますか?だったら煎れるますけど」
「んー、いいやお茶飲むから、ありがとう」
「……」
「?」
 甘いココアも好きなのだが、今は渋くて熱いお茶が飲みたかった。
 高耶が急須に茶葉を入れていると、横で沙織の視線を感じ、ん?と振り返って見る。。
「何?」
「んー、やっぱ仰木さんていいなー、って思って」
「え?」
 エヘヘ、と笑うと沙織は続ける。
「だって、結構いるんですよ、お茶煎れてもらって当然、みたいなの。でも仰木さん、ちゃんと≠りがとうとか言うしー、そうそうッ!実は仰木さんってポイント高いんですよッ優しいし可愛いしッ!」
「……え、っと…」
 興奮気味に力説する沙織に、高耶は内心ゲ、と後ずさってしまった。
 この森野沙織は仕事も出来るし可愛い気が効くし、と良い部下なのだが、この、ミーハーと言うかテンションが高いと言うか、たまに付いて行けないのが難点だ。
「可愛い、って…」
 仮にも上司に言う言葉ではない、それ以前に高耶は男でしかも25になる。可愛い、なんて言われて嬉しい訳が無い。はぁ、と肩を落とす高耶に構わず、沙織のテンションは朝っぱらから今日も高かった。
「仰木さんって可愛いですよ?顔も性格もッ」
「……」
 褒められてるらしいが、高耶的には複雑だ。
「おい?」
 そんな所へひょい、と千秋が顔を出す。
「なーにやってんだ?」
 お茶を煎れてくる、そう言った切り戻って来ない高耶の様子と見に来たらしい。
「あ、千秋さん、お早うございます」
「おはよ…って森野さんじゃん、何してんの?」
 2人して給湯室に篭り、しかも沙織の手は高耶の腕を?んでいる。何か不穏な……とは欠片も思わないのは高耶・沙織、と言う面子故かもしれない。
「あ、そうそう、千秋さんも思いますよね?」
 戸惑い気味の高耶に対し、沙織は千秋の姿を見て更にテンションが上がった。
「へ?」
「仰木さんって可愛い、って」
「……はぁ?」
 何だそりゃ、と言う顔になった千秋に、高耶も相手にするな、の視線を送る。そんな高耶の顔を見て、千秋は直ぐに怪訝そうなものが不敵な表情に変ってしまった。
「千秋…」
 それに高耶は、嫌な予感を覚た。
「思う思うッ!高耶は可愛いよな、うん、俺と一緒で」
「えー、仰木さんは可愛いけど、千秋さんは違いますよー」
「ひでぇ」
「だって違うし……千秋さんは可愛い、って言うよか格好良い、ですよ」
「あらら、俺ってば加格好良い?」
 デヘヘヘ、とだらしない顔で笑うと、千秋は機嫌良くぽんぽん高耶の頭を軽く叩く。
「止ッめよろ馬鹿」
 その手を鬱陶しそうに振り払い、高耶はこれ以上付き合ってられない、とばかりにオフィスへ戻って行ってしまった。
「はぁ」
 沙織に捕まってしまった所為で少し冷めてしまった湯呑みを両手で持ちふぅふぅ飲んでいる姿は、沙織では無いが確かに可愛らしい、と言う言葉が不自然では無い。
 ぼんやりお茶を飲みながら窓の外をボンヤリ眺めている高耶が目を伏せると、睫の影が目の下に浮かぶ。沙織から解放され給湯室から戻って来た千秋はそんな高耶を見詰め後輩に『可愛い』と言われても、仕方内かもしれない、と内心苦笑してしまったのだった。








 ウエスギ、は住宅の内装設計家具水周り、全てをトータルコーディネイトしている外資の企業だ。
 ウエスギ、と名の通り元々は国内企業だったのだが、外資資本に合併されたのが4年前。社名は変らなかったが、事実上の吸収合併。社長は合併元のアメリカ人で本社もまた然り。それでも元のまま引き継ぐ形で、リストラが敢行されなかった事に当時社員全員胸を撫で下ろしたものらしい。高耶が入社したのは合併されてからなので、その辺の事情はよく知らないのだが。
 一応は名の通った大学を出たのが、不況真っ只中の状況で一部上場、大企業と言える会社に就職出来たは運が良かったと思っている。
 仕事も大変だが、遣り甲斐もあるし上司や同僚にも不満は無い。恵まれた環境だと、高耶は思っていた。そんな不況の中での建設ラッシュに、毎日忙しく働いている。
「なぁ、聞いたか?」
「んー?」
 書類から目を上げずに答える高耶に、何時の間にかキュービックに入って来た千秋が耳元で囁いた。
「新しいの、来るんだって」
「え?」
 やっと顔を上げた高耶に、千秋はニヤリ、と意味あり気な笑いを浮かべる。
「何かさー何処の課だっけ……忘れたけど、課長が強引にうちの課引張ってきた、ってやつ。今週からだろ?だったら今日からじゃねぇの?」
「……」
 そんな話は初耳で。本当か?と言う高耶の眸に、千秋はふん、と鼻を鳴らした。
「俺の情報は確かだぜ、しかもそいつ、今年入社だってよ」
「……今年?」
 まだ入社1年経っていない新人、それをこの課に?
「そ、しかも課長直々、だ」
「…凄いなぁ…」
 ガセでなは無いだろう、他は置いておいて、社内に置ける千秋の情報は間違っていた事は無い。
「……」
 素直に感心する高耶に、千秋は呆れたでも、決して冷たくは無い溜息を吐いた。
「お前な……ちょっとは危機感持ったら?そんな期待の新人君が来るんだぜ?」
「え?だって使えるやつが増えれば仕事スムーズにいくし、あの課長が引っ張った位だし」
 本気でそれが?と答える高耶に、千秋はハハ、と苦笑するしかない。
「…ま、いいけどね」
 そこがいいトコだしな、と口の中で独り言の様に千秋は呟いた。それに確かに使える人間が多いのは、仕事に対してストレスが減る一因にはなる。周りが使えない無能者の場合、非常に精神によろしく無いのを千秋は知っていた。
「しっかしあの課長がな…」
 課長の成田は、非常に有能だ。元々のバックグラウンドがアメリカで本社からの人間だ。成田的には日本で働く事が『海外転勤』らしい。小学校から大学まで海外生活では、確かに日本自体が海外、に違いない。
 そんな成田は完全なまでの実力主義者で、年齢やキャリアは一切考慮しない。飽く迄も『今』能力があるかどうか、なのだ。そんな成田なので、やり方も多少強引で社内で敵が少なくない。だが実力も実績も確かなので、煩い周りを黙らせている。
「俺課長、怖くってよぉ」
 この前千秋は初歩的なミスをして、恐ろしい目に合ったばかりなのを高耶も知っていた。
「だってお前が悪いんじゃん…普通しないよな、見積もり1ケタ間違えるなんて」
「……うるせ…」
 成田は部下を叱咤する時、決して声を荒げない。薄嗤いさえ浮かべている時も多い。だがその迫力は並ではなく、オーラに気圧され夢にも出て来そうな程で。だが意外に人気もある。贔屓や男女差別などが一切無いからだ。
 実力があれば上げる、無ければ切り捨てる、そのやり様はいっそ小気味良い。そう言う高耶も、成田を嫌っていない。好き嫌い、で分ければ好きな部類に入る。
「でも俺、課長結構好きだけどなぁ」
「お前はいいよ、課長に唯一ッ!可愛がられてる世にも貴重な存在だもよ」
「そんな訳ねぇだろ」
「いや、あるね」
 言い切る千秋に、高耶は苦笑しながらお茶を飲む。大分冷めてしまったら、猫舌の高耶には丁度良い温度になっている。ズズ、と啜りながら高耶は今日来ると言う新人はどんなやつだろう、と思いを巡らせた。
 この営業部は社内でも非常に忙しく、そんな課に来るのだから、しかも成田のお墨付き、期待しない方が無理と言う話である。沙織に『性格も可愛い』と言われてしまう通り、高耶はそんな風に純粋に楽しみにしていたのだった。








 騒騒
 空気が動いた気がして高耶はふと顔を上げた。
「……」
 営業部の入り口ドア、そこが開いていて1人の見慣れない男が立っていた。
 営業部のオフィスは広く、青い絨毯が敷き詰められている。仕切り一切無いブチ抜いた空間に、社員1人1人のキュービックが並んでいるのだ。狭いし完全に密閉されいる訳では無いが、机机で区切られているから自分の仕事に集中出来るし、高耶は気に入っていた。
 そんな風に仕切られているので、誰も男に気付いていないらしい。高耶も不意に顔を上げて目に入ったのだから。
「?」
 何かこの課に用事があるのだろうか。ボンヤリ高耶が見ている先では、男が鋭い視線で部内を観察している。高耶も無意識に、男を観察していた。
 背が、高い。多分190近くある。顔が小さい所為で、肩幅や体躯の良さが強調されていた。それより顔が目を引いた。端正な美貌……
 TVや雑誌で見るタレントとりも、余程男前だ。モデル、と言われた方が納得出来る。全体的に色素が薄いのか、髪は高耶とは違う茶色で色も白い。目の良い高耶には、その目も薄茶なのが分かった。
 何よりも男の持つ存在感に、自然と高耶の意識は引き摺られてしまう。
「ふぅん…」
 仕立ての良いスーツから伸びた足が、ムカつく程長い。
「おっとこ前だなぁ…」
 男の全てを一言で説明すれば、こんな的確な言葉もない。そう高耶が呟いた時だった、
「ッ」
 男が、振り向いたのだ。

「ぁ…」

 きっと何気なくこちらを向いたのだろう。そこで自分を見詰めている目に遭遇し、男は一瞬目を見開いた、が、それは一瞬で。直ぐにス、と目細めると、高耶の視線を真正面から捉えた。


「……」
「……」


 色素の薄い眸から、高耶は目を離せなかった。その強い眼差しに、喰われる錯覚を覚える。喉の渇きを感じ、それを慣らしてしまったもの自分で気付いていない。
「高耶?」
 思わず漏れた声に、隣の千秋が反応した。大きくないと思っていたが、思いの他大きい声だったのかもしれない。
「え?あ…」 
 言われて初めて、自分が知らない男を舐めるように見詰めていた事実を思い出し、再び慌てて男を見た。
「……」
 だがもう、男は高耶の方を見ていない。ゆっくり入ってくると成田の前に立った。そこまで行くと、部署の半分位の人間は誰だ?と首を傾げつつ興味深気に見守っている。
「あいつ」
 千秋も男の方を見たままで言った。
「え?」
 男に引きつけられていた高耶は、千秋の声にハッ、と振り返る。
「あいつだよ例の新人、確か……直江、とか言ったっけ」
「直江?」
「ああ、直江、期待の新人クンだ」
 詰まらなそう、だがどこか面白そう、そんな風に器用に千秋が言った言葉を理解した途端、高耶は目を丸くしてしまった。

 ガタンッ

「えぇ?!」
 声はそれ程大くは無かったが椅子が後ろに倒れてしまえば、それは響くのは当然だ。オフィス全体に響いてしまった大きな音に部署にいた者皆が振り返るのを見て、高耶は恥ずかしさに目を細めてしまう。もし絨毯敷きでなかったなら、何倍もの音が響いていただろう。
 絨毯で良かった……そんなどうでもいい事まで頭に浮かんでしまう高耶だった。
「…すみません…」
 耳を赤くして頭を下げ、慌てて腰を降ろした。そんな高耶に成田は少しだけ表情を和らげたのを、横に立っていた男だけが気付いていた。
 クスクス、小さな笑い声は決して揶揄う響きは無かったが、それでも高耶は恥ずかしくて仕方がない。
「お前はアホか」
「…煩い…」
 千秋に呆れられて、高耶は唇を尖らせボソボソ反論も出来なかった。
「皆」
 少し高目の成田の声に、辺りがシン、となる。途端に緩んだ空気が張り詰めた。
「紹介しておくよ……ちょっと立って…直江君だ、今日からこの営業部に移動になった……直江君」
 キュービックはそう高くないので、立ち上がれば頭が出る。わざわざ皆を集めないのが成田らしい。無駄は省く、話はその場でも出来る、そう言う事だ。
「はい」
 成田に促されると、直江、と呼ばれた男は一歩前に出る。
「今日からこちらでお世話にる直江です、宜しくお願いします」
 言いながら軽く一礼。
 文字にしてみると飽く迄も普通の新人の挨拶だが、雰囲気がそれを裏切っていた。醒めた空気に表情、新人の持つ緊張感が欠片も無い空気。
「ふてぶてしい奴…」
 ボソ、と呟いた千秋の言葉に、納得してしまう高耶だ。でも、確かに惹き付けられるものがある。それは秀でた容姿からくるものもあるが、それより高耶は、言葉に出来無い何か・・を感じ少し離れた場所から直江を眺めた。
 さっさと挨拶を終わりにすると、皆仕事に戻っていく。そんな中で成田は高耶を呼んだ。
「仰木」
「はい?」
 呼ばれて成田のデスクへ向かうが、まだ課長の横に立つ直江に高耶の意識はどうしても向いてしまう。見られている気がして、妙に居心地が悪かった。
「何でしょうか」
 成田の正面に立てば、自然その横に立つ直江の正面にもなる。多少斜めではあるが、正面なのには変らない。高耶は故意に、直江の方を見ない様努める。
「今日仰木は宮崎様のお宅に行く予定だね?」
「はい」
「直江も連れて行きなさい」
「は…い?」
 何を言い出すのか、繕う余裕も無く高耶は成田を見返えしてしまった。
「現場にこの直江も」
 戸惑う高耶の前で、成田は直江の肩に手を置く。
「一緒に連れて行け、と言ったんだ」
「……はぁでも…」
 今度新築する宮崎、と言う客の家に今日は訪ねる予定だった。設計内装の高耶は、キッチンを担当している。一言でキッチンと言っても用途は広く、シンクから食器棚、設備は殆ど備え付けになる予定なので、それによって設計も変ってくる。なので重要な仕事な筈だ。
「今日は…」
 この客に会うのは2度目で、詳しい話をするのは今日が始めてだ。
 『家』とは客にとっては一生の買い物だ。なので自然と要求は厳しくなるだろう。そんな現場に新人の、それも今日移動してきたなかりの者を連れて行っていいのだろうか。高耶だって1人で行動出来る様になったのは、今年に入ってからだ。それまでは先輩の補佐としてくっ付いていたのだから。
「分かってる、だから言ってる、いいかい仰木」
「…はい…」
「直江も分かったな」
「はい」
 抑揚の無い直江の答えに、高耶は溜息が零れるのを何とか飲み込んだ。
「分かりました」
 成田に答えると、直江は高耶を視界に捕らえる。
「…」
 一瞬躯が強張ったのを、誰も、高耶自身も気付いていない。
「仰木さん…宜しくお願いします」
「…はぁ」
 上司命令に逆らえる筈も無く、高耶は力無く頷いた。離れた場所から千秋の心配そうな視線をも、感じる余裕が無かったのは言うまでもない。







     ||  

  TOP