7 砂上の王国



「どうしたの?風邪でも引いた?」
「……え?」
 振り向き目をパチパチ瞬く夫に、綾子は溜息を吐く。自覚無いの?と呆れ顔だ。
「全く……やっぱり風邪じゃないの?」
 会社から帰ってきた高耶はコートを着たまま、リビングのソファに腰を降ろしていた。キッチンからは良い匂いが漂ってくる。どうやら今日のメニュウはカレーらしい。
 綾子の作るカレーはプロ顔負けで、スパイスから自分で調合しているのだ。そんなカレーは味合い深く、高耶の大好物の一つだった。だがそうそう作ってはくれないのだが。何故なら綾子曰く、
「作るの自体は簡単なんだけど、面倒臭くって腕疲れるんだもん」との事だ。確かにタマネギや小麦粉を夫々一時間も炒め続けなければならないのだから、腕も痛くなるだろう。それが分かっているので、そう強請れない高耶なのだ。
「平気だって……良い匂い……」
「ふふふ、今日は高耶の大好きなカレーだもんね」
「うん、腹減ってきた」
「じゃあ着替えてきなよ」
 頷き立ち上がろうとした高耶の元へ、
「たかやッ」
 パタパタと走ってくるのは景虎だ。
「たかやーッ」
「景虎」
 そろそろオムツを外す練習をしているらしく、下半身がスッキリしている。高耶としては、あのアヒルの様なお尻が可愛かったのだが。日々成長していく我が子を、目を細めて見守った。
「おかえりッ」
「ただいま」
 ソファに座っている膝の上に上ろうとする景虎を、高耶はひょい、と抱き上げる。
「景虎、今日は何して遊んだ?」
「オレね、綾ちゃんとえ、かいたんだッ」
「俺にも見せて?」
「いいよッ」
 嬉しそうに答えると、景虎はバタバタと子供部屋へ消えてしまった。
「はぁ…」
「綾ちゃん?」
 景虎は親の真似をして、たかや、綾ちゃん、と呼ぶ。
「どうしたの?」
 溜息を吐きつつ高耶の隣に綾子は腰を降ろした。
「だってさ、あの子の絵、変なのばっかなんだもん」
「変って?」
「食べ物ばっかり」
「はぁ?」
「お菓子とかハンバーグとか、そんなのしか描かないんだよ景虎、笑えるけどさ」
「……」
 思わずクスクス笑う高耶に、綾子は抱き付き頬にキスをした。
「ッ」
 途端に強張る躯に綾子は気付かず、そのまま高耶の肩を抱き寄せ唇を合わせる。
 どうして、こんなにも戸惑いを感じてしまうのか――
「……」
 浮かぶ男の顔に、ギュ、と眸を閉じ少し乱暴に綾子を抱き寄せた。
「高耶?」
「……」
 何も言わず抱き締めてくる高耶の背中を、綾子は優しく何度も撫でてやる。しがみ付いてくる高耶は、抱いているのではなく綾子に、確かに抱かれていた。様子のおかしい高耶を綾子は、何も言わず抱き締める。それは景虎が戻って来るまでずっと、続いていたのだった。





 翌朝弁当を作っていた綾子は、昨夜の高耶の様子を思い出していた。
 トントントン
 人参を切る音だけが、キッチンに落ちていく。その音を聴きながら、綾子は自分の思いに沈んでいった。
「……」
 久し振りの、セックスだった。元々淡白な高耶よりも、綾子が誘う方が多い。昨夜も例に違わず綾子が仕掛けた。騎上位で上に乗ると、高耶を犯している気持ちになり興奮する。だから綾子は昔から、それを好んでしていた。
 何処か高耶には、嗜虐心を刺激する何かがある、と常々思っていた。だからと言って実際SMをやろうと思った事は無いが、セックスの最中の苦しそに歪んだ顔が綾子は好きだった。痛みでは無く、快楽で歪んでいるからだ。
 モデル並の長身の綾子は、文字通りモデルのバイトもやった事がある。映画や芸能界の話が来た事もあったが、一切興味が無いので直ぐに断ったのだが。綾子の夢は、愛する相手と結婚して家庭に入り子供を産む、そんな実は難しい事だったのだから。
 誰もが美人、と言われる容姿も持っていた女が選んだ男が高耶で、それは大学一年の時だった。
 高耶には隠れファンが多く、そんな女達に『やられた』と言われ気分が良かったのを昨日の様に覚えている。決して目立つ存在では無い高耶の彼女が綾子だと、驚く者も多かったのだが。
 高耶を選んだ自分の目は確かだったと、今でも綾子は自負している。綺麗で可愛い高耶は、どんな男よりも上等だ。この場合の綺麗、可愛い、は、深い意味がある。それを誰よりも自分が、理解しているのだ……だが……
「……」
 トントントン
 リズミカルな音が、キッチンに響いている。
「……」
 だから心配だった、昨夜の高耶だ。
 セックスの途中、綾子が上で腰を振りながらキスをしようと覆い被さった時だった。
「痛ッ」
 鋭い痛みが、指に走る。
「……」
 チ、と舌打ちしてしまう。
 料理は好きだ、あらゆる頭脳を使うから。味は無論、栄養、色彩、バランス、体調、こんなにも繊細で能力を必要とする行為は他に無い。馬鹿は料理を出来無い、とは正に正しい言葉だ。それに今綾子には、高耶と景虎がいる。大事な2人の為に工夫を凝らす事に、無上の幸せを感じるのだ。
「……」 
 指を口に含むと、鉄の味が広がる。この味が決して嫌いじゃあ無い所が複雑だった。
「高耶…」
 そう、高耶は泣いていた、綾子を上に揺す振られながら。
「……どうして…」
 あの涙は、哀しみ、のものだ。快楽の為、生理的なもの、それとの区別など綾子には簡単に出来るのだ。あれは間違いなく、
「……何が哀しいの…?」
 呟いてみても、答えなど返ってくる筈もなく。
「……」
 ふぅ、と溜息を吐くと、綾子は弁当作りを再開した。
 人参を飾り切りし、昨日作っておいたメンチを取り出した。後は揚げるだけの状態にしておいたのだ。美味しい肉を使いスパイスを効かせたメンチは、売っているものとは比べ物にならない、と言っていたのは高耶だ。
 嬉しそうに顔を綻ばせていた高耶を思い出し、綾子の胸は温かくなる。
「おはよ」
 背後で声がして、包丁を持ったまま振り返る。
「はよ…高耶、寝癖凄い……昨日そんな良かった?」
「ッ」
 途端に真っ赤になる夫にケラケラ笑い、綾子は洗面所へ促した。真っ赤になり睨みながらも高耶は、言う通り顔を洗いに洗面所へ消えていく。その背中を見送りながら、綾子の顔からは笑顔が、ス、と消えていた。
「……」


 愛する高耶、大事で大事で、大切な景虎息子。この、何ものにも変えられない宝物幸せ―――


「渡さない……」

 何があっても、誰であっても

 そんな決意の篭った言葉を聞いたものは、温かなキッチンの空気だけだった。














 季節は徐々に動き、冬から春へ移ろうとしている。変らず仕事は忙しく、それが高耶の救いだった。忙しければ、何も考えずに済むからだ。
「おい」
「ッ」
「高耶?」
 隣のキュービックから顔だけ出した千秋が、見ると眉根を寄せている。その表情に何故か$ルいと感じ高耶は取り繕った笑顔を浮かべて見せた。
「何?」
「何、ってお前……何ビビッてんの?」
「……」
 やはり一瞬震えたのを、千秋は見逃してくれなかった。
「別に…」
「……」
「千秋?」
「このオーブン、やっぱオランダのクレイ社のやつの方が良いんじゃね?……って訊こうと思ったんだよ」
「…うん…俺もその方が良いと思う」
「そうだよな、じゃあそうする…お前さ、平気な訳?」
「平気って?」
「仕事だよ、仕事し過ぎ。お前も成田カチョ目指して出世街道進みたいのか?オエッ、似合わねーなー」
「……失礼なやつ…仕事やっちゃ文句あんのかよ。やんないなら分かるけど、やって何で煩ぇ事言われなくちゃなんねんだ」
 腹立ち紛れにぶつけた言葉に、千秋は涼しい顔で答えた。
「そうだよ」
「は?」
「だから、やんねぇ方が文句ねぇえよ、仕事」
「……意味分かんねぇし…」
 だが、ケ、と吐き捨てる高耶の肩に、千秋の手が唐突に伸びた。
「ッ」
 ビクッ、と揺れた肩は果たしてバレてしまっただろうか。
「高耶」
 低い声に、息を呑む。
「……」
 妙な高耶の態度にこの鋭い友人が、誤魔化されてくれる筈無かったのだ。
「一体何だ」
「……何がだよ…」
 分からない振りをしてみる高耶にも、冷たい視線が飛んでくるだけだった。
「惚けんな、テメェのその奇妙は生態、分かんねぇ筈ねぇだろドアホ」
「……生態…」
 野生動物の様に言われ、高耶はムッと唇を尖らせた。だがそんな高耶の些細な抵抗など、千秋にとって無きも等しい。
「吐け」
「……だから何を…」
「高耶ッ」
「ッ」
 鋭い声は決して大きく無く、低く静かに抑えてある。だがそれ故余計に、声に空気に迫力があった。
「千秋…」
 中学時代実は、高耶は少しヤンキーだった。煙草を吸ったり、たまに授業をサボったりガラスを割ったりと、随分可愛いものだったのだが。だが千秋は違う。
 これは以前会社帰りに食事に行き、偶然千秋の中学時代の知り合いにバッタリ会って仕入れた情報なのだが、中学代の千秋はそれはそれは手の付けられないチンピラだったそうだ。
 荒れに荒れていて喧嘩は日常茶飯事、6人相手に半殺して鑑別送りになりそうになったらしい。それはエピソードの極一部で、本当に誰もが恐れ、下っ端だがヤクザさえにも、歩くと道を開けられたそうだ。勿論卒業後のスカウト・・・・も多数あった、とその古い知り合いは笑って教えてくれた。
 高校に進学しそれらから卒業した千秋だが、凄みなど全て消える筈も無く。本気で怒らせればどうなるか、高耶には想像も出来無いのだった。
「高耶……お前の顔色。悪いんだよ」
「……」
 ふぅ、と溜息を吐く眸は、高耶を気遣う色しかない。
 この優しい同僚は入社以来の友人だが、時間は関係無く一生付き合っていきたいと思わせる男だった。無論そんな事、本人に言ったりなどしないのだが。もし言えば散々揶揄われ、延々ネタにされるのが目に見えているから。
「高耶…直江なぁ、綾ちゃんも絶対心配してるぜ?」
「……」
 優しい声、眸。
 言って、しまいたくなる。全て吐き出し、楽になりたい。それがエゴだと分かっていても。
「高耶…」
「ちあ」
 人に話てしまえば、本当に楽になるだろう。その誘惑に高耶はフラフラと釣られ口を開いた、が、


「仰木さん」


「ッ」
 突然降ってきた低い声に、凍り付いてしまった。
「……」
「高耶?」
「……いや……何?」
 ゆっくり見上げる先にあるだろう男の顔を見るのが、高耶には怖かった。だが、避けられないと分かっている。
「何だ、直江」
 首の辺りに視線を彷徨わせてながら言うと、意外な言葉が返ってきた。
「オマール社から見積もりが届いたのですが」
「……」 
 手渡される書類に伸ばした指を、紙の下で男の指がス、と撫でる。 
 電流が、走った。
「ッ」
 バサバサバサ
「ぁ」
「おーい……っつたく」
 椅子に座ったまま硬直している高耶に千秋は、呆れつつ落とした書類を拾ってやる。
「何ボケてんだお前は……おい?」
「あ……あ、ぁ…悪い」
 慌ててしゃがみ込み、高耶も拾いだした。
「俺がやります、千秋さんは結構ですから」
「へぇへぇ、相変わらず高耶にだけ甘いなお前は」
「そうですか」
 無表情で切り返す直江に、千秋は鼻白む。
「ケ、食えねぇやつ」
 詰まらなそうに肩を竦めると、千秋は自分のキュービックに戻ってしまった。あんなに千秋の追及から解放されたがっていたクセに、今は直江と2人切りで残さないで欲しかった。
「……」
 男の方を見ない様、高耶は黙々と散ばった書類を拾い続ける。そしてやっと最後の一枚を拾った時、
「ッ」
 グイッ、と腕が引かれた。
「な、にッ?!」
「――――――今日、家に来て下さい」
「!」
 囁かれた言葉に硬直する高耶を置いて直江は、目を通して置いてください、と言い捨て消えてしまった。
「……」
 呆然と自分のキュービックの中で座り込む高耶は、たった今言われた台詞を反芻する。





 今日、家に来て下さい――――





「……家、に…」
 呟く言葉が突き刺さる。
 ユラ、と立ち上がると、高耶はそのまま覚束無い足取りでオフィスを出た。そのままフロアの端にあるトイレに逃げ込む。
 シャーッ
 勢い良く飛び出す水を両手で掬い、顔に向かって浴びせ掛けた。
「ッ」
 いくら春先とは言っても、まだまだ空気は冬の冷たさを残している。
 バシャッ、バシャッ
 だが高耶は、それを繰り返す何度も、何度も。
「はぁ……は、ぁ……」
 顔を上げると鏡には、泣きそうになっている男が1人こちらを見ていた。濡れた前髪からは、水が滴り落ちていく。
「……」  
 まるで幽霊の様な顔色は、自分のものとは思えなかった。



 家に来て下さい



「ッ」
 甦る声に、唇を噛み締める。
 あの夜、直江の部屋で犯された日から直江からの接触は一度も無かった。あれは夢だったのかもしれない、そう思ってしまいそうな程。だが、それは不可能だった。
「……なおえ……」
 眸が、逃げを赦してくれない。
 熱を孕んだ眸が高耶を、気が付くと捕らえている。それは高耶以外誰にも気付かれないものだった。それだけ高耶にだけ、高耶だけを重く激しく見ていると言う事だ。
 行く、筈が無い。行ける訳、無いだろう。
「綾子……」
 名を呼んでも、一旦受け入れた『迷い』は高耶を解放してはくれなかった。
 綾子を、愛している、大切なパートナー
「綾…」
 助けて、欲しかった……あの凶器とも言える眼差しから。
「綾子……景虎…」
 縋る名は、祈りの言葉に似ていた。
「綾子……景虎……綾子……綾……」
 喘ぐ様に呟き続ける高耶の顔は、今にも泣きそうじゃ程に必死の形相だ。
 それでも、言葉を止められなかった。逃げと言われても構わない、このまま引き摺られ、抜け出せなくなる前、に。あの暗く燃える眸に完全に、捕らえられてしまう前に。
「綾……ッ」
 直江―――
 口からはとうとう零れなかった言葉はだが、強く深層に刻み込まれる。
 トイレの中には、高耶の小さな声と出しっ放しの水の音だけが懺悔の様に落ちていった。






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