処刑人 ―過去―


 アイルランド北部の夏は短い。短く、短いが故、儚く美しい。それはこの地でしか見る事の出来ない、神が作りたもう最も美しいものであるかもしれない。
 広大な牧草地には無数の羊が放たれていて、その周りを犬がバウバウ吠えていた。そんな犬に直江は、乗っていた馬から降り背を撫でてやる。
 すると吠えていた犬は、クゥン、と小さく鳴くと大人しくなった。
「……」
 牧草地の向こうには、遠い海が見える。グレーにくすむ海は、この距離からでもうねりを上げているのが感じ取れた。だがその海にもこの草原にも、確実に夏の香りが流れ始めている。
 暫くの間遠い海を眺めていた直江は、ピュイッ、と口笛を鳴らすと、馬に乗り上げた。
「行くぞ」
 直江は12歳になっていた。
 成長が早いのか遺伝なのか、15、6歳に見られる事が多く既に馬も優雅に乗りこなしている。長い足で軽く腹を蹴ると、栗毛の馬は小さく鼻を鳴らし走り出した。
 ウォンッ
 それに合わせて3頭の大型犬達も、散らばっていた羊を追い立て始める。
「はいッ」
 直江も器用に手綱を操り、犬達と共に羊を集めていった。
 全ての羊を馬上から確認すると、犬達と共に家へ向かって歩き出すのであった。




「?」
 家まで後少し、となった所で直江は、馬上の上で目を見開く。
「高耶?」
 こちらに向かって懸命に走って来る小さな姿は、間違いなく弟の高耶であった。
「なおえーッ!」
 子供特有の高い声はよく通り、直江は馬の足を速める。そして漸く高耶が辿り着くと、兄は馬から降りた。
「高耶?」
「……」
 目の前の弟は、必死に走って来た割りには目の前までやって来ると、目を合わそうとしない。俯き唇を噛んでいる。
「高耶……」
 何かあったな……
 直ぐに悟った直江は溜息を吐くと、小さな頭の上にぽん、と手を置いた。
「少し待ってて」
「……」
 とりあえず、羊を小屋に入れなければならない。高耶の様子は気になったが、何度か頭を撫で直江は仕事を優先した。その間高耶はずっと、俯いたままである。
 牧草犬と共に羊を小屋に仕舞うと、馬も繋いだ。そこで漸く突っ立ったままの弟の元へ向かうのだ。
「高耶」
「……」
 名前を呼んでみても、高耶は顔を上げない。だが啜り上げる様子に、泣いているのだと分かる。何を泣いているのか直江には、さっぱり見当が付かなかった。
「……」
 6歳になる高耶は、兄と違い華奢で小柄だ。それはやはり、父似、母似、が理由であろう。高耶の母は、直江にとっては義母であるが、優しく美しい人だったと記憶していた。
「高耶」
 膝を着き、直江は弟の顔を覗き込んだ。
「……ひぃっく……ッ」
 思った通り、桃のような頬はびしょびしょであった。
 自分とは違う黒い眸は可哀想な程真っ赤で、今も大粒の涙をぽろぽろ流している。
「どうした?」
「……ぅ……う……っく……ッ」
 女の子と間違われるような可愛らしい容姿の弟は、その容貌を裏切り中々気が強く乱暴である。今もグイッ、と乱暴に自分の頬を拭った。
「赫くなる……」
 ごしごしと擦る高耶の手を止め、直江はそっと額を合わせる。それは兄弟の間だけで行われる、特別なものであった。
「高耶?」
 だが高耶は、そんな兄をギロリと睨んだ。涙と鼻水塗れの顔で睨まれても、可愛い可哀想なだけである。だが兄はそんな高耶に、大袈裟に驚いて見せてやった。
「何を怒ってる?」
 哀しそうな兄の様子に、子供の高耶は簡単に口を開いてしまうのだ。
「オレッ」
「高耶?」
「オレッ……今日たんじょうびなのに……ッ!」
 誕生日?
「あ」
 弟の言葉に虚を突かれた直江は、珍しく本気で慌て始める。
「高耶」
「たんじょうびなのにッ!」
 いくら大人びているとは言え、直江もまだ12歳である。学校や家の手伝いで、日々忙しくしていた為すっかり忘れしまっていた。
 毎年この時期は、1か月以上前から高耶が騒ぐので忘れてしまう事は無かった。だが何故か今年に限り、高耶は一切自分の誕生日について口にしなかったのも、直江が忘れてしまった要因である。
「高耶……」
 これはしまった、と思うしかない。
 この日は毎年、村に一軒しかないクッキーやマフィンを売っている店で、特別にケーキを作ってもらうのだ。事前にオーダーして置かなければならないそれも、当然忘れていた。
「……」
 苦い顔の兄に全てを悟った弟は、今度こそ声を上げて泣き出した。
「うわーんッ」
「高耶」
「うわーんッオ、レのたんじょ……び、なのにぃ……ぅえーんッ」
 びーびー声を上げて泣く弟を、直江は慌てて胸に抱き込む。
「ぅえーんッ!」
 だが高耶は泣き止むどころか、更に声を上げるのだ。
「うわーんッ、うわぁーんッ」
 小さな躯で力いっぱい泣く姿は、酷く稚く哀れである。だが同時に……これは本当に仕方のない事なのだが、笑ってしまうのだ。
「うわーんッ」
 既に子供には見えないが、それでも少年でしかない直江である。この場合は仕方無かったのかもしれない。
「……くす」
 精一杯大声で泣く姿が、何だか可笑しく可愛い。だから直江は無意識に、クスリ、と笑いを零してしまったのだ。
「!」
 だがそんなものに気付いてしまった高耶にとっては、大事件である。
「なおえ笑ったッ!」
「あ」
 大好きな兄が自分の誕生日を忘れ、事もあろうか笑ったのである。
「わらったッ!」
 黒い眸はキリリを引き上がり、小さな手は兄の肩をばんばん叩いた。
「わらったッ!」
「ご、ごめん」
 慌てて抱き締めようとしても、小さな躯はスルリとすり抜けてしまう。
「なおえきらいだッ!」
 叫んだ高耶は、そのまま走って行ってしまった。
「高耶ッ!」
 小さな子供の足だ、走れば直ぐに追い付ける。だが直江にとって、非常にタイミングの悪い事が起こってしまった。
 ぶるる
「あッ」
 高耶の様子に慌てていた所為で、馬の綱をきちんと固定していなかったらしい。馬の気配に振り返ると、解けてしまった縄をダラリと垂らした栗毛の馬が立っていた。
「クソッ」
 慌てて直江は馬の手綱を掴むと、背後を振り返る。
「……」
 そこには既に、高耶の姿は消えていたのだった。











 小さな村では、全員が顔見知りと言っていい。学校では皆が友達、もしくは喧嘩仲間であった。
 学校で高耶には、何時も一緒に遊んだり喧嘩したり、まあ仲良し≠ニ言っていい男の子がいる。その子との会話が、この事件の発端であった。
「オレたんじょうびだ」
 得意そうに言う高耶に、その友達は唇を尖らせた。
「タカヤの嘘つき」
「うそじゃない!」
 7月23日、それは高耶の誕生日である。そして今日は6月30日、確かに友達の方が正しい。
「もうすぐだから、たんじょうびなんだッ」
「ふうん変なの……でもさあ、何でタカヤはいつも誕生日じゃないのに誕生日って言うんだ?」
 確かこの友達は、去年もその前も、誕生日から遠く離れた日付から、誕生日誕生日、と騒いていた気がする。6歳の子供でも記憶がある程、高耶は毎年事前宣告≠オていたらしい。
「だって、わすれちゃうだろ?なおえも父さんも」
 真剣な様子の高耶に、友達もまた真剣な顔で首を振った。
「おかしいよタカヤ」
「何だだよッ」
「だって誕生日って忘れないもん。母さんも父さんもヘザーも」
 ヘザーとは、この友達の姉である。
「そんな前に言わないと忘れちゃうって、タカヤのこと嫌いなのかもよ?」
「!」
 これは、6歳の子供にとっては、天地がひっくり返る程の衝撃的な言葉であった。
「うそだッ!」
「だって言わないと忘れるんだろ?」
「忘れないもんッ」
「だってタカヤ、忘れるって言ったじゃん」
「……」
 既に高耶は泣きそうだ。
 何時もはどんなに取っ組み合いになっても、高耶は絶対泣かなかった。自分は泣いても高耶が泣く事は無かったのだ。そんな友達の、今にも泣き出しそうな顔に子供は大いに慌ててしまう。
「じゃあさッ」
「……」
「もう高耶、言うのやめろよ」
「……やめるの?」
 目を赫くしながら訊く友達に、子供はしっかりと頷いた。
「高耶が言わないでも高耶の誕生日知ってたらさ、嫌いじゃないだろ?」
 その言葉に、高耶の顔にパァ、と笑みが広がる。単純は単純だが、子供達は真剣であった。
「うんッ」
「だから言うのだめだ」
「わかったッ」
 まるで機密事項を相談するかのように、2人の子供達は酷く真剣な顔で頷き合ったのだった。








 本当は、ずっと言いたかったのだ。だって本当に忘れられたら……だが友達の言う、言わないと忘れるのは嫌いだからだとの言葉に高耶にグッと我慢を続けた。その間凡そヶ月、これは6歳の子供にとって、長く長く、長過ぎる時間であった。そうして迎えた本日7月23日、高耶は朝起きてからずっと、ドキドキしていた。
 父は何時も朝は寝ているので仕方がない。だが直江は朝顔を洗って朝食を食べ終わっても、何も言う事はなかった。まさか直江が忘れているのか?との不安を胸に高耶は学校へ向かった。
「タカヤッ!」
 教室に入ると、早速友達が飛んでくる。
「タカヤ、どうだった?」
「……」
 訊かれた高耶は、何も答えず俯いてしまった。それを見て、友達は大いに慌ててしまう。
「まだ朝だよ!帰ってからマギーの店のケーキがあるよッ」
 マギーの店とは、何時もケーキを買う店だ。甘いおやつを売っている店は村に一軒しかないので、特に子供の間では絶大な人気がある。
「絶対だッ!」
「……」
 普段は喧嘩ばかりしている友達の一生懸命な様子に、高耶は少し嬉しくなる。だから自然と笑顔になった。
「そうだよな」
「そうだよ!大丈夫だタカヤ!」
 そうだ、きっと直江は忘れている振りをしているだけで、家に帰ればちゃんとマギーの店のケーキがある、そうに決まっている。父さんだって、変なプレゼントをくれるのだ。
「うんッ」
 それだけの事で高耶の機嫌は、急速に上向きになった。
「サッカーしようぜ!」
「うんッ」
 友達がサッカーボールを持つと、高耶もこれまでの事を忘れたかのように外に飛び出した。そして外でサッカーをしている間に教師が来て、2人して怒られる事になってしまうのである。
 終わったと同時に、高耶は学校を飛び出した。戻ると家には誰もおらず、今度は家を飛び出す。直江はきっと、羊を追っていると分かっているからだ。
 父は今日辺り、近所のパブだろう。そんな父が、高耶の誕生日を覚えているとはとても思えない。
 父は好きだが適当なので、腹が立つが仕方がないと思える。だが、直江は違っていた。直江が忘れるだなんて、高耶にとっては悪夢だ。
「なおえ……」
 声には不安が滲んでいて、子供はふらふらと表に出た。そして兄がいるだろう牧草地へ向かう。距離はあるが、そんなもの今の高耶にとって、問題では無かったのだ。










「ぅ……っく……ひ ぃ……っく……」
 牧草は崖ギリギリまで生えており、高耶はそこで座り込み膝を抱えていた。
「ぅ……ぇ……ひ、っく……」
 果たして直江は忘れていた。それが分かった瞬間、高耶は目の前が真っ暗になった。
 忘れている=嫌い
 そう変換されたからである。
「ぅえ……ひっく……」
 ズブズビ鼻を啜っては、高耶は石を海の方へ投げていた。
 もう、家なんかに帰るものか。直江は嫌いだ、だって高耶の誕生日を忘れていたのだから。
「ふ……ぇ……っく……」
 泣いていた高耶気付けなかった、背後から近づく人の気配に。だから、
「高耶」
「ふわッ」
 突然背中から抱き締められ、躯を飛び上がらせてしまった。
「あッ」
 正体は直ぐに知れる。顔など見ないでも分かり切っていた、だってこんな風に抱き締めてくるのは、兄か父かどちらかだから。
「……なおえは嫌いだ」
「ごめん」
「オレの事きらいなくせに」
「え?」
 その言葉に、まだ12歳の少年は目を丸くしてしまう。
「だって!だって誕生日嫌いだと忘れるってッ!」
 高耶の言葉に直江は、違うと首を振った。
「高耶が嫌いなんて絶対無い!俺は高耶が一番好きなのに」
「……」
 腕の中で振り返った高耶は、そこに怖い表情の兄を見て目を瞬いた。
「高耶が嫌いなんて無いッ」
 優しくて、高耶には何時も笑顔ばかり見せてくれる大好きな兄の、こんな顔は滅多に見ない。もしかして、初めて見たかもしれない。
「……」
 そんな兄に驚いた高耶だが、それでもやはり疑ってしまう、だって忘れたのだから。
「……じゃあ何で忘れたんだよ」
「それは……ごめん」
 全面的に謝る直江に、高耶は段々どうでもよくなってきてしまう。
 直江は嘘を吐かないし、何より高耶を嫌いは筈がない。あれだけ不安であった高耶だが、ケロリとその部分を忘れてしまっていた。
「じゃあ、マギーの店のケーキは?」
 あれは本当に楽しみで、無いとなると高耶にとって由々しき問題である。
「……ケーキは無いけど、俺がパイを焼くから」
 それじゃあダメ?と必死な様子の直江に、高耶は赦してやる事にした。何時までも子供じゃないのだ、ここは大きな気持ちでゆるしてやろう。
「いいよもう」
 そう思うと、高耶の気持ちは大きくなる。
「だってオレもう7歳になるんだしなッ」
 偉そうに笑う弟の手を引くと、直江は立たせてやった。そしてその前にしゃがみ込む。
「へへッ」
 高耶は嬉々として、その背中に飛び付いた。
「今日は特別だから」
 そう笑う兄の頬に、弟は頬をぐりぐり擦り付けるのだった。
 家に戻った直江は、早速高耶の為にパイを焼こうと簡素なキッチンへ入る。だがそこには思いもしない先客がいた。
「父さん?」
「よお」
 長男に気付いた父はニヤリと笑う。
「何、してるんですか?」
「何ってお前、今日は高耶の誕生日だろ?」
「……」
「だからパイだ!誕生日にはパイだろうが!」
「……」
 にこにこ顔の父に、直江は直ぐに悟った。
 すっかり次男の誕生日を忘れていた父は、パブで思わぬ事実を知らされる。そして慌てて家に戻ると、酒臭いままでパイ作りに着手したのだ。
「……俺がやります」
 この父に、パイが作れるとは思えない。だが今日の父は頑なであった。
「だめだ」
「……じゃあ、俺も手伝います」
「そうか、なら一緒に作るぞ」
 そこへ高耶が顔を出す。
「父さん?何してんの?」
 可愛い次男に父は恰好を崩し抱き締めた。
「わッ」
 小麦粉だらけの手で抱き締められ、高耶は悲鳴を上げてしまう。
「何すんだよッ」
「ああ、ごめんごめん」
 へらへら笑う父に、高耶は偉そうに唇を尖らせた。
「父さんはうっかりだからな!ちゃんとしなきゃだぞ!」
「はいはい」
 そんな様も可愛くて仕方がないのか、柔らかな頬に音を立ててキスをする。
「待ってろ高耶、俺を直江で美味しいパイ作るからな?お前はあっちで待ってなさい」
「えー、父さんが?」
「そうだ!美味しいぞー」
「……まあいいけどさ」
 背後で直江が苦笑している。それを見て高耶は、今回は友達が間違っていたと悟るのだ。
 誕生日を忘れたって、ほら、直江も父さんもこんなに高耶が大好きだ。
「いいよ、オレ待っててやる」
 得意そうに鼻を鳴らすと、今日7歳になる次男は意気揚々とキッチンから出て行ったのだった。











「高耶?」
「……」
「高耶?どうかした?」
「……いや……夢見てた」
 目を開き周りを見回すと、そこはサウスボストンの兄弟の住処だ。
「もう起きなさい」
「……うん」
 眠そうに擦った高耶の目はだが、次の瞬間見開かれる事となる。
「あ」
「ふふふ」
 丸いテーブルの上にあるのは、どう見てもパイである。それがルパーブのパイだと、高耶は食べなくとも知っていた。
「おめでとう高耶」
「……うん」
 何だか恥ずかしくなった高耶だが、マットレスから立ち上がると兄の待つテーブルへ向かう。そして丸いパイを、上からまじまじと見降ろした。
「……」
 そんな高耶に声を掛ける事なく、黙々兄江はアーミーナイフでカットする。椅子に座った高耶はカットされたパイを掴むと、そのまま口に運ぶのだ。
「……」
「……」
 ガランとした空間で、兄弟は黙々とパイを食べた。
 パイは美味かった、あの日父と兄が作ってくれたパイよりもずっと。だが高耶にはもう、あのパイの味が思い出せない。
「……美味いな」
「ああ」
 あの日、一番幸せだったあの日―――
 夢を思い高耶はそっと熱くなってきた目を瞬く。それに直江は、気付く事はなかった。





夏コミ新刊「処刑人」のサイドストーリ―……の筈