ある捕虜の日記






 某N国・作戦司令部

 窓1つ無い密室を照らすのは、小さなランプだけで。四方コンクリートの壁に囲まれ、置いてあるのはデスクと大きなテーブル。薄暗い部屋の中、大きなテーブルには、それと同じ位大きな地図が広げられている。
 地図には様々な記号や印が書き込まれており、意味が分からない者がそれを見ても、不思議と血腥さを感じ取れるものであった。
 長い間、男は顔を上げず地図を見詰めていた。その集中を途切れさせたのは、大きなもの音であった。
 バンッ
「大佐ッ」
 大佐、と呼ばれた男はゆっくりと顔を上げる。
「何事だ」
「捕えました」
「捕えただと?」
「はッ」
「……」
「敵国のスパイが潜んでおりましたッ」
 ビシッと躯を伸ばし敬礼をする部下を一瞥すると、男は口元を歪めた。スパイ≠フ言葉に、室内にいた他の者達からざわめきが立ち上がる。それらを一瞥し黙らせると、男は報告をした部下を見据えた。
「……」
 その薄茶の目には温度が無く、冷え切った、見る者を凍り付かせる酷薄さが敷かれている。そして際立つ美貌は、男の残忍さを彩る宝石のようであった。
「何処に」
 抑揚の無い声に、無意識に部下の背中に震えが走る。
「ちッ、地下の3号に閉じ込めておりますッ」
「分かった、下がれ」
「はッ」
 敬礼をすると部下は、逃げるように作戦司令部から退室した。男は振り返ると、部屋に4人いる部下を見回す。
「……」
「……」
「……」
「……」
 ゴクリ……誰かが喉を鳴らす音がやけに大きく室内に響いた。
 部下が見た事もない、大佐の笑顔がそこにあったのだ。そしてそれは、限りなく禍々しいものであり、部下達は凍り付いたように立ち尽くす事しか出来ない。
「ここは任せる」
 それだけ告げると大佐もまた、指令部を後にしたのだった。












「ぺッ」
 床に貯まった唾を吐き捨てると、赫に染まっており苛立ちが増した。
 血の味は好きではない、色々な記憶が蘇るからだ。
「……」
 背中で手首を縛られ転がされ、冷たい床が体温を奪ってゆく。着ていた防寒具などとうに奪われ、薄い躯を纏うのははシャツのみである。しかもそのシャツは、敵国のものである事実が忌々しい。
「……」
 窓は無い。鉄のドアには、当然だが厳重に鍵が掛けられてる。灯りは部屋の隅に置かれている小さなランプのみであり、ネズミの死骸が妙にはっきり浮かび上がっていた。
「……クソ……」
 しくじった……
 自分のミスに頭を掻き毟りたくなる。だがこうして縛られている状態では、それもままならない。
 N国軍本部に侵入するのは、そう難しい事ではなかった。
 これまで何度も軍部に侵入し、機密情報を手に入れてきた。今回も手筈通り……そう考えていたがやはり、油断が生まれていたらしい。それがこの結果だ。
 今回のターゲットは、本部内にある作戦司令部だ。これまで司令部は首都に置かれていたが、今回軍本部内に移動された。その際作戦司令部のトップが交代したとの情報が入っている。
 突然のトップ交代は、司令部に少なからず衝撃を与えたらしい。だが1ヶ月もしない内に新しいトップは認められ、功績を上げていると言う。
「……」
 突然の交代劇の裏にあるものなど、分かり易すぎると言うものだ。
 前トップは生きていまい。即座に粛清され、とうに海で魚の餌となっているのだろう。
「……」
 そんなものはどうでもいい、問題は、新しくトップに立った男である。
 直江―――名前しか知らない。情報は、名前のみであった。だが就任早々いくつもの作戦を計画遂行し、成功に導いた男である。
 成功―――
「……」
 知らず唇を噛み締めていた。

 成功、即ち同朋の死に繋がっている―――

「チッ」
 今回の任務は、今現在直江が実行せんとしている計画を探り、それを阻止する。そして……暗殺だ。
 これまで同じような任務に就いてきた、何度も何度も。そして今もこうして生きている事が、全ての成功を示している。失敗すれば、それは即ち死≠ナあるからだ。だが、
「……」
 これまでか……そう思っても、不思議と恐怖も哀しみも浮かんでこない。当然だ、そんな感情なととうに、過去に置いてきてしまったのだから。
「は……」
 疲れた、寒い、腹が減った。
 どうせ殺されるのだ、とっとと済ませて欲しい欲求に駆られる。
「……」
 目を閉じ、数度呼吸を整えた。そうしていく内に感情が削がれ、機械人形になっていくのを実感出来る。そうなれば、もう何も感じないのだ、感じられない。
 
 コツコツコツ

「……」
 微かな音に、閉じた瞼が微かに揺れた。
 性別男……身長190前後、体格良し、多少の重心の片よりは銃を下げている所為だ。
 靴音で情報を収集すると、男がやって来るのを待つ。

 コツコツコツ
 コツコツコツコツコ、ツ―――

 ガチャガチャ

「……」
 鍵の開ける音がする。それなのにこうして、床に転がっている自分が不思議であった。
 これまで何度か、こうして敵に捕らえられた事がある。だが隙を見て反撃し、そして脱出してきたのだ、今と同じような状況で。なのに今、こうして床に転がっている自分が可笑しい。

 ギィィィィィ

 鉄の扉は開き、表から少ないが明るさが差し込んできた。だがそれは、

 バタン

 一瞬で閉ざされてしまうのだ。
「……」
 足音で分かっていたが、部屋にやって来た男は1人。それは意外でもあった。拷問をするのだから、3、4人で来ると思っていた。だが正直どうでもいい事だ。
「……」
 無意識に、声にならない嗤い声を上げていた。そして重い瞼を動かしてみる。
「……」
「……」
 面白い事に、やって来た男と真っ直ぐに目が合った。そして、捕虜の眸に知らず、生気が流れ込んでくる。
「……」
「……」
 瞬時に把握する。


 この男がターゲット――――直江であると。








 捕虜と大佐は、少しの間無言で見詰め合っていた。その空気は、特に重くもなく穏やかでもなく無≠ニ言える時間であった。そして、先に口を開いたのは大佐であった。
「……くくくく」
「……」
 薄目を開いた捕虜の赫の目を見た瞬間、直江は自分でもおかしいと思う程気分が高揚した。それは、性的興奮に近く、そして異なるものであった。
「これはこれは」
 歌うような声音に捕虜は、微かに目を眇める。
「……」
 スパイを捕えたと聞き、直江はもしかして、と思った。
 この数年、我がN国に置いて何度か、作戦を潰される事があった。無論そんな事実は隠蔽され、極一部の者にしか知らされていない。潰す方法は遠回しにじわじわと情報を操作したり、銃に拠る血腥い方法を使ったりと色々だ。だがそれらに共通している点があった。それは、首謀者が1人であり、同一人物と言う点だ。
 ちなみに直江の前任者は、このスパイに拠って失策、そして失脚し粛清された。
「くくくく……あなた、だったんですねえ」
 心底愉しそうな声に、捕虜の顔に怪訝な色が浮かぶ。あくまで無表情の下なのだが、直江にはよく分かった。
「そうだとは思ったが、まさかあなた≠セとはねぇ」
「……」
 おかしい……記憶の中に、この男は無い。
 記憶は完璧だ。少しの漏れも無い。漏れなど、ある筈が無いと断言出来る。なのにこの男は、何故こんな目で自分を見るのか……
「ああ、不思議そうですね」
「……」
 コツコツコツ
 男は近付き、そして靴先が視界に入り込んだ。
「教えてあげましょうか」
「……」
 この距離であれば、敵を制圧出来る。手の拘束など、そう問題は無いのだから。
「……」
 やる気を全く失くしていた感情が、男―――直江の顔を見て気が変わる。それは華やかな変貌であった。
 
 ス
 それは一瞬だった。
 跳ね上がるように両足を上げると、次の瞬間バネを使って躯を起す。そして流れる動作で自由な足が躍った。優美とさえ言えるそれは、暗殺の舞であった。
 シュ
 鋭利に作られている靴先は、確実に男の急所を捕えていて―――
 ザッ
 ドサッ
「ぐッ」
 何が起こったのか、瞬時には理解出来なかった。
 避けられた―――?
「……」
 捕虜は茫然と、自分の上に跨るよう馬乗りになっている男を見上げた。
「くくくく……」
 グイッ
「!」
 軽く押さえられているだけだ、なのに動けない。こんな技≠、捕虜は知らなかった。
「―――-−虎」
「……」
「そう呼ばれているT国のスパイを知っていますか?」
「ッ」
 男の指が、肌蹴けられた胸を伝う。
「彼は14の時警官を殺し、収容所へ入れられた」
「!」
 捕虜が自分の下で、これ以上ない程目を見開いている。この捕虜の失くした筈の感情を、この自分が蘇らせている……それは堪らない愉悦であった。
「そして即時処刑された……だが面白い事実があるんですよ」
「……」
 剥いた目は血走り、捕虜は爆発しそうな感情で男を凝視している。男はそんな捕虜を、愛しくて仕方がない、と言った目で見詰めた。
「ッ」
 それは、紛れもない恐怖≠ナあった。
 何度殺されそうになっても、躯がバラバラになるような拷問を受けてても全く感じなかった恐怖=Bそんな捕虜は男の狂気に、純粋な恐怖≠感じていた。
「……」
 こいつは一体……
「くくく……彼は実際、生き延びていた……政府が決して公に出来ない、地下組織があったんですよ……T国には」
「……お、まえ……」
 何故……震える声に、捕虜は気付いていなかった。
「まだ続きがあるんですよ……それは政府にとって不都合な人間を消す為に、暗殺者を育成する組織だったんです……面白いでしょう?死刑囚が政府のスパイになるだなんて」
「……」
 男は本当に愉しそうで、捕虜は言葉無く見上げている事しか出来なかった。





「仰木高耶」




「――――――――」
 頭を撃ち抜かれた衝撃に、呼吸さえも忘れた。
「……そう虎≠フ名は仰木高耶……かつてそう名乗り、仰木高耶であったんですよ。ねえ……」






「高耶さん?」







「止めろぉッ!」
 血を吐く悲鳴に、男の嗤みは益々深くなる。
「高耶さん……高耶さん?」
「その名で呼ぶなッ!」
「何故?あなたは高耶さん、でしょう?」
 愉悦を滲ませ男は、血と埃で汚れる頬を舐め上げる。
「……」
「震えているんですか?」
「お前……おま、え……」
「やっと会えたのに」
「……知らない……お前なんか……知らない……」
 溶ける表情から一転、憎悪に満ちた男の目に捕虜は動けない。
「ずっとずっと……俺は探していたんですよ……ああ、面白い事を教えてあげますね?」
「……」
「俺はねえ……T国の人間なんですよ本当は」
「!!!!」
 今度こそ高耶の息は停止する。
「ふふふ……ずっとずっと……」
 そう言いながら、男の指は妖しく捕虜の胸を這い回った。
「誕生日おめでとうございます」
「え」
「今日でしょう……ああ、もう日付が変わったしまったので昨日でしたね……あなたの誕生日は」
 言いながら男は、捕虜に顔を寄せてくる。
 頬を舐め、唇を、それはそれは美味しそうに舐めていった。そして赫の片目を、これ以上ない程美味しそうに舐めるのだ、何度も何度も。
「ああ、美味しい……」
「……」
 捕虜は自分の中で、最後まで隠し手放さないでいたもの≠ェ、砕け散った音を確かに聞いた。
「は……はは……」
「高耶さん……」
「はは、はははは……」
「ああ、高耶さん……」
 血の交わりは、饗宴と享楽に満ちていて。
「…………高耶さん」
「……」
 砕けてしまえば、捕虜の中にはもう、何も残っていない。
 空になった入れ物をN国大佐≠ヘ、それはそれは愛おしげに抱き寄せた。



「―――」



 その瞬間捕虜の口から何か、言葉が零れた。だが抱き締めていた男の耳に、それが届く事はなかったのだった。













間に合わなかった……