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 心身に染み付いた恐怖は、決して消える事は無いのだ、例え何時の日か薄れても、魂核に染み付いたそれ・ ・が、消滅する事はありえない。
「御帰りなさいませ」
 重文に指定されてもおかしくは無い純日本屋敷の門はコンピューター制御されていて、車が近付くと自動的に内側に観音開きに開く。敷地内に入って、リムジンは減速した。そのまま一分程走ると、数段ある石段の前で停まる。空かさず運転手にドアを開けられ軽い浮遊感を感じながら降り、長いドライヴを終えた途端にそう声を掛けられた。
「…ただいま……」
 知った顔に無視する訳にはいかず、小さい声で返事を返すと、相手の表情が少し動いた気がした。
 車は既に消えていて、恐らく運転手が車庫に仕舞いにいったのだと分かった。再び顔を前に向けると、先程迎えてくれた使用人が、北条の鞄を持って男の後に付いて母屋の門に向かっている。
 高耶も仕方無く、その後に続いて邸内に消えていった。
 ここ・ ・が厭いだ。
 夏休み特有の暑さを伴う華やかさが、ここには存在しない。雲一つ無い色素の濃い高い空が、酷く遠くに感じる。重厚な門を通り抜けると、その感覚が更に鋭くなるのだ。
 邸内に入る時点で、吐き気にさえ襲われる。
 だが、ここ・ ・でしかいられないのだ。

 いない筈の者・ ・ ・ ・ ・ ・―――

 その事実がどんなに焦燥感を煽り、恐ろしい事なのか、目の前を歩く男は決して理解出来はしない。
 長い廊下をボンヤリ歩いていると、直江の顔が脳裏に浮んだ。
 初めて寮の部屋で声を掛けてくれた時、廊下ですれ違う度に薄い笑みを浮かべて軽く会釈をする、図書館ではしつこい上級生から助けてくれた。
そして、あの雨……
 一体何時からだったのだろう、直江の笑顔が消えてしまったのは。
 そこまで考えると、自嘲が浮んだ。
 自分が、悪いのに。
 直江に殴られている最中感じる事は、申し訳無さと、彼への憐憫だった。それでも、苦しみながらも自分から離れていかない直江に、高耶は貴重な幸福感を得る事が出来る、それが直江の苦しみを引き換えにしてだと分かっているのだけれど。
 黙って帰省した自分を、どう思っただろうか。千秋が、何か説明してくれていると、いい。それとも、苦痛の元凶である高耶が側から消えて、安堵しているのかもしれない。
「……」
 そう考えると泣きたくなる、そんな資格なんか無いのに。
 混乱する思考を余所に、限り無く無表情のま北条の背中を見詰めた。
 何処に向かっているのかは分かっている、男の祖父である世間で小田原大老、と呼ばれての老人の所だ、そしてその老人は、高耶の祖父、でもある、否、そうでなくてはならないのだ。
 中庭に面した長い廊下を少し歩くと、目的の部屋の前で止まった。新しくは無いが手入れの行き届いた障子は、完璧な造形を見せている。
ハッキリと、でも抑揚の無い声で、男は障子を隔てた向こうにいるだろう人物に声を掛けた。
「唯今戻りました」
 男の低い声に、絶望が深まる。
「入れ」
 しやがれた、それでいて凛とした強い声。
 明らかに老人のそれなのに、この声以上に威圧感を煽るものを高耶は知らない。
 膝を着いて両手で障子を開く北条に習い、同じ様に両膝を板張りの廊下に着く。
「失礼します」
 膝を着いたまま一礼すると、北条は二、三歩膝を着いた姿勢で部屋に入った。後に続いて入室した高耶は、今度は障子を閉める。
 顔を上げずに無言で一礼をした。
 無意識に、部屋の隅、入ってきたその場で正座をしたまま、ジッと畳の縁を睨む様に凝視していた。
 俯いたままで耳に入ってくるのは、北条の仕事についての事だ。興味も無いし、聞きたいとも思わない。虚しい気持ちを抱えて、小さくため息を吐いた
 その内話が終わった北条がまた一礼して部屋を出て行く。残されたのは、高耶にとって永遠に理解し得ない怪物″
 落ちる沈黙に、臓器が圧迫されていく感覚を覚えた。
「高耶」
名前″を呼ばれて、肩が震えたのを、多分知られてしまっただろう。
「……」
 ノロノロと顔を上げた。
 隔てている距離は、六畳程の和室では大したものでは無い。それなのに、押し潰される錯覚に、吐き気が込み上げてくる。
 正面に座っている筈のものは何故か視界から漏れて、その後ろにある掛け軸だけが目に入って来た。
 国宝級のそれが垂れ下がる様は腐った果実のようで、薄気味悪いとしか取れない。古伊万里の大皿、その横に厭味無く置かれているガレの水差し、それら全てが高耶を追い詰めていた。
「ここへ」
 命令にゆっくり立ち上がり、そのまま覚束無い足取りで、声のした方に歩いていいく。
「……」
 ほんの数歩、それでも一歩一歩が、足元から崩れていきそうな意識を保たせる努力を必要とするもので。やっと、辿り着いた時には、声の主も立ち上がっていたのだった。
 170後半はある高耶の正面から見据える眸が、まだボンヤリしている表情を曝している顎を不意に掴む。
「!」
 ハッ、となった次の瞬間には、その掴まれている強さに顔を顰めた。
 80は超えている筈のその老人の眸を、咄嗟に見詰め返してしまう。
「……」
 声はもう、出なかった。
 もし出ていても、無様に震えたものになっていたに違い無い。
 老人とは思えない強い力、真っ直ぐ伸びた背筋は高耶と変わらない高さを示している。何よりも、冷たい冷たい……そして全てを射抜いてしまうだろう、鋭い眼光。
 この光に見据えられた者全て、声を失ってしまう、それ。
「……ぁ…ぁ、ぁ……」
 どうしてこれ・ ・から、逃げられると思ったのか。

 直江…寮長……

 縋れる唯一の言葉に、やっと小さく呼吸をした。
 ただ固まった様に張り付いた視線を下げて、顎を掴まれたまま目蓋を半分だけ綴じた。
「どんどん、似てくる」
 フッと、嗤った気配。
 瞬間、その似ている゛と言う言葉の意味に、目の前が真っ暗になった。
 ボンヤリと虚ろな瞳には、何も映っていない。興味が無くなった様に顎から手を離した老人が部屋を出て行っても、高耶はそのまま立ち尽くしていた。
 それからどれ位経ったのか、数分か数時間だか定かじゃ無い。聞いた事の無い声がしたのは、そんな事を意識の隅で思った時だった。
「お前が高耶″?」
「―――ぇ…?」
 慌てて振り返った先にいた、襖の縁に手を掛けている少年は、確かに見た事の無い者だった。口元には、何が可笑しいのか薄嗤いを浮かべている。
 不意に、思い出す、北条が会わせたい者がいる、と言っていた事を。それは直感であった。
「何ボケッとしてんだよ、高耶・ ・
 クスクス嗤いながら近付いてくる少年を、言葉無く観察する。
「あれ?聞いてない?おれの事」
「え?あ、あぁ……」
 戸惑いを隠せない無様な様子に、少年の嘲笑が深まった。
 栗色の髪はその顔立ちと比例して、優しいく柔らかい零囲気を持っている。立ち振る舞いや言葉尻に残る音が、育ちの良さを感じさせた。しかし、笑顔が自然であれば自然な程、見え隠れしている  酷薄さに寒気がする。
 居た堪れずに黙り込んでいると、突然腕を掴まれた。
「!」
 驚愕の表情になる高耶など気にも留めていないのか、少年は制服の白い開襟の袖を、肩まで捲り上げる。
「な…っ?!」
 余りに突然の行為に、抵抗するのも忘れてしまった。
「……へぇ……こうゆう趣味があるんだ?」
 口元を意地悪く歪めて、少年は可笑しそうに嗤った。
「離…っ!」
 見られたものの正体が分かったと同時に、掴まれていた腕を乱暴に振り解く。
「何?いぢめ?それとも―――SM?」
 クスクス嗤う声が、耳障りだ。
「……ちょっとぶつけて……」
 腕に残る傷跡と、生々しい痣。腕だけでは無い、躯中を彩る、それ。付けたのは、誰よりも、大切な男。
「ふぅん、あ、っそうなんだ?」
 高耶の苦しい言い訳に、少年は愉しそうに頷いた。
 早く、立ち去ろう。
 ここには、いたくない、この得体の知れない少年と一緒にいたくないい、と言う理由だけじゃあ無く、ただ、ここ・ ・は厭いだった。
「じゃあ……」
 オレはこれで、と言って部屋を出ようとした高耶の退路は再び少年の笑顔で塞がれてしまう、檻の様に障子に伸ばした腕と供に。
「夏休みの間、宜しく」
 柔らかい笑顔に、例えでは無く背中に冷たいものが走った。
「……ぇ……?」
 だから言葉を失った唇に指が伸びてくるのを、ボンヤリ見守っている事しか出来ない。
「クスクス……震えてるよ?どうしたの?」
 指先で滑らかな頬を何度か撫でると、そのまま固まっている腕を掴んで歩き出した。少年にされるがままに腕を引かれて廊下を歩いて行く。目の前の、自分とは違う薄茶の髪が揺れるのを見ながら、眸は影を落としていった。
 北条が会わせたい、と言ったのは多分この少年だ。そして、夏休み中この屋敷に滞在すると言う。相手をするのは北条の人間″として、だろう仰木高耶″の役割をさせる。
 今になって、やっと男が態々山奥にある学園まで足を運んだ訳を理解した。
 これは仕事゛だ。そして自分には、拒否権は、やはり無い。
 陰鬱な心を引き摺りながら少年に腕を引かれて向かった先は、北条のいる洋間だった。
 間柄は兄弟・ ・。そんな事実に、乾いた嗤いが力なく口から漏れる。鎖に繋がれたがれた、弟、そんな自分に。
 部屋に入って来た二人に、男は立って挨拶をする。高耶は貼り付けられた笑みを見ない様、窓から夏の空を探した。
「高耶」
「はい」
 顔は、上げない。
「こちらは成田譲さんだ。成田物産の会長の御孫さんであり、常務のご子息でもある」
「……仰木、高耶です……」
「成田譲です」
 アァルヌーボーのソファとテーブルに、譲と隣合わせに、北条が正面に腰を下ろすと、紅茶を持った住み込みの家政婦が入ってくる。
 失礼します、と言い直ぐに消えてしまった。
「高耶、譲さんはアメリカのプレップスクールに通っていて、夏休みの為に一時帰国した、休みの間家に滞在する、お前が色々と持て成して差し上げなさい」
「――――はい―――」
色々″に、意図を感じて唇を噛み締めた。
「久しぶりの日本でゆっくり休みたいと思っています、ここは静かで良い所ですね、無理を言って申し訳ありません」
 にこやかに、譲と北条の会話が進んだ。
 そう言えば、近々成田物産と取引があるらしいと千秋から訊いた様な気がする。興味が無い、と言うより、成るべく耳にしたくは無い事柄なので、意識して遠ざけていた話題を、学校の先輩から訊かさられる羽目になったのは、休みに入る少し前だったと思う。
成田″の子息。そういう、事なのだ。
 少年の名前を出されて℃d事″の内容・ ・を把握する。
 甘い匂いを感じ窓の外に目を向けると、何時の間にか雨になっていた。




 高耶の、夏が始まった。